どんな人?
- 大浦みずきは、元宝塚男役トップスター。在籍中は「宝塚のフレッド・アステア」と称され活躍した。父は芥川賞作家の阪田寛夫。
- 宝塚歌劇団退団後はミュージカルやストレートプレイ、文筆業と様々な分野で活動し、第30回『菊田一夫演劇賞』や第13回『讀賣演劇大賞女優賞』を受賞した。
- 2009年11月14日、肺がんのため53歳の若さでこの世を去った。
生い立ち
父は芥川賞作家
1956年8月29日、東京都中野区に生まれた。
父親は芥川賞作家の阪田寛夫。[出典1]
芸能活動
タカラジェンヌとして
1972年、宝塚音楽学校に第60期生として入学し、1974年には『虞美人』で初舞台を踏んだ。[出典1]
雪組に配属されたあと星組に組替えし、次いで花組に組み替えすると[出典2]、1988年には『キス・ミー・ケイト』で花組の男役トップに就任し[出典1]、「宝塚のフレッド・アステア」と称され[出典2]、1991年の退団まで走り抜けた。[出典1]
宝塚歌劇団退団後
宝塚歌劇団退団後はミュージカルやストレートプレイ、文筆業と様々な分野で活動し、第30回『菊田一夫演劇賞』や第13回『讀賣演劇大賞女優賞』を受賞した。[出典1]
主な出演作は次の通り。[出典1]
- 『蜘蛛女のキス』
- 『レ・ミゼラブル』
- 『Che Tango』
- 『三文オペラ』
- 『マレーネ』
- 『ナイン THE MUSICAL』
- 『カルテット』
- 『民衆の敵』
- 『母アンナ・フィアリングとその子供たち』
- 『帰り花』
- 『イーストウィックの魔女たち』
- 『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない?』
- ダンスシアター『GIGEI-TEN』シリーズ 「DANCIN’ CRAZY」
私生活
キャッチコピーは?
2007年、インタビューに応じた大浦は自身のキャッチコピーは?と訊ねられ、「10年計画中」と答えたうえで以下のように解説した。
あと10年は踊るぞと決めたらそういう場が意外と出てきて、最初はたいへんだろうなって思ってたんですけど、たいへんなのもやってるうちに快感になってきて(笑)、周りのフォローがあるからでしょうけど、自分がちょっと変わってきました。
より面白いものを見せていきたいなって思っています。 [出典3]
肺がんによる死去
2009年11月14日、肺がんのため53歳の若さでこの世を去った。[出典2]
惜しむ声
幼なじみであり弔辞を担当したエッセイスト・阿川佐和子は、
電話では『頑張って』と声をかけていた。
この年になると親しくしていた人が亡くなる知らせが多くなるが、年下(の大浦さん)に先に逝かれてしまい…ショックです
団地仲間で、まさか幼なじみの弔辞を読むのが“なっちん”だなんて思ってもいなかった。
私と会う時はスターという顔を見せてくれませんでした。ちょっと早すぎやしないかと思い、悔しくてたまりません。
もうすぐ、私もそっちにいきます。(弔辞を)泣かずに読めましたよ
ビービー泣くのも彼女に失礼。でも、原稿を書こうとパソコンに向かったけどイヤでね…。
(書かないまま本番に臨んだが)言葉が途切れずに良かったです。
小さい頃からよく知っていて365日遊んでいた。まさか、大人になってから会って頼りがいのある妹になるなんて…
と沈痛な面持ちで語った。[出典4]
また、振付師グスタヴォ・ザジャックは大浦の人柄を、
情熱、才能、敬いの気持ち、献身、自己規律、技術、個性、カリスマ性、その全てを持っていた人であり、そして謙虚だった
と振り返った。[出典5]