どんな人?
- 太田雄貴は、滋賀県出身のフェンシング選手。小学3年生から同競技を始めており、小学5年・6年では全国少年大会小学生の部を、中学2年・3年では全国少年大会中学生の部を連覇している。
- 2008年3月末には世界ランキング8位以内を確定。アジア大会で28年ぶりに金メダルを獲得、北京オリンピックでは日本フェンシング界初の五輪メダルをもたらした。
- 日本人初のメダリストとして、フェンシングの普及活動にも積極的に取り組む。フェンシングの普及、発展に尽力すべく「SUPER FENCING」プロジェクトを企画、運営している。
選手活動
小学生からフェンシングを
父親の勧めで小学3年からフェンシングを始める。
小学5年・6年では全国少年大会小学生の部を、中学2年・3年では全国少年大会中学生の部を連覇。
当時、心の中には以下のような大きな目標を秘めていたという。
中学を卒業する頃、僕の中にひとつのプランがあったんです。
僕が小学校5年の時、福田佑輔さんが鳴り物入りでインターハイデビューをして3位になり、その後は2年、3年と連覇をしていた。
だから僕は、それを超えるインターハイ3連覇をして歴史に名前を残したいなと思っていたんです。
それとともに高校2年で全日本選手権へ出場してナショナルチームへ入り、大学1年でアテネオリンピックへ出場するという構想を考えていたんです[出典1]
高校生ながらオリンピックに出場
座骨の剥離骨折で苦しみながらも、高校2年生のときにインターハイ連覇を達成。
「ベスト8までいければ満足」と思って臨んだ同年11月末からの全日本選手権で、史上最年少優勝(17歳)を果たした。
高校3年次にはアテネオリンピックに出場。日本人史上最高の9位に入った。[出典1]
ルール改定の試練
アテネオリンピックの成績に満足して次の北京オリンピックへ狙いを定めようとした矢先、”ルール改定”という試練が訪れた。
以前は、相手の有効面を剣の先で突いた時、500g以上の力が1000分の1秒間加われば得点となっていた。しかし、そのルールが1000分の14秒間必要と変更になったのだ。
太田は、素早く大きな振り込みで相手の背中を剣先でかするように突いてポイントを取るのを得意にしていたが、ルール変更後は「突いた!」と思ってもなかなか得点できなくなったという。[出典1]
引退を意識した時期も
同時期、2003年からナショナルチームのコーチに就任していたマツェイチュク・オレグ氏の指導で、女子フェンシング選手の菅原智恵子が中国国際大会で優勝するなど急激に力を伸ばしていた。
太田は当時のことを
僕も新しいルールにオレグのレッスンが合っているのは何となくわかっていたんです。
でも、中学生のころからずっと指導してくれた飯村栄彦先輩とやってきたフェンシングを捨てたくなかったから、オレグのことを認めたくなかったんです。
本当に“井の中の蛙”で、外国人には教わりたくないと意地を張っていたんですね。
と振り返る。
2006年になると、太田と同い年の千田健太が、ワールドカップのなかでもグレードが高いグランプリ大会で日本人最高の3位に。
千田がオレグの指導を受けていたのは知っていたが太田は「あいつが勝ったのはたまたまだ」と無視を決め込んでいた。
そんな太田に追い打ちをかけたのが11月末の全日本インカレ。
決勝で1年生の目黒友薫に敗れてしまったのだ。
太田は、
その時はもう、フェンシングに失恋したような気持ちでしたね。
だからそこで初めてオレグに頭を下げて、「アジア大会で勝たせてくれ」と申し込んだんです。
それまで散々反抗的な態度をとっていた僕に、オレグは何か言うだろうと思っていたけど、彼は何も言わずに受け入れてくれたんです
と当時のことを明かしている。[出典1]
日本フェンシング界をけん引する存在に
その後オレグ氏の指導を受け、アジア大会では決勝で韓国の李天雄に圧勝して日本フェンシング界に28年ぶりの金メダルをもたらした。
2008年3月末には世界ランキング8位以内を確定。
北京オリンピックへの出場権を獲得し、北京オリンピックでは見事銀メダルに。ヨーロッパ伝統の競技であるフェンシングでの銀メダル獲得は、日本にとっては大きな価値を持つ偉業となった。[出典1]
フェンシングの普及活動
太田は日本人初のメダリストとして、フェンシングの普及活動にも積極的に取り組んでいる。[出典1]
フェンシングの普及、発展に尽力すべく「SUPER FENCING」プロジェクトを企画、運営する。[出典2]