どんな人?
- 岡崎友紀は子役としてドラマなどで活動を開始した女優。
- 15歳の頃にはNHK連続ドラマ『あねいもうと』で主演をを務めて一躍有名になる。
- 芸能活動に加えて動物保護や地球環境保全のための活動を行っている。
生い立ち
放送局に勤めていた母
岡崎の母親は満州で放送局に勤めていたため、芸能活動への理解があったという。
戦時、母たちは野戦病院のような場所にも慰問に出かけていたそうです。
聴衆にはお腹に穴が開いていたり、両手両足がない人もいたそうですが、その人たちはとても嬉しそうな顔をしてパフォーマンスを観てくれたそうです。
そうした経験の末、岡崎の母は「戦争は全てのモノを奪うけれど、自分さえ元気でいればいい。自分で身につけたものはいつまでも残るから、何でもやるなら基礎からやれ」と語り、のちに岡崎を芸の道に進ませたのだという。[出典1]
芸能活動
幼くして東宝芸能学校へ
岡崎は小学生の頃、母親のすすめで東宝芸能学校の児童科に入学。
東宝芸能学校を選んだ理由については、以下のように説明している。
お月謝がすごく安かったのです。
私は、音楽に合わせて踊ることが好きで、バレエを習わせてもらっていたのですが、発表会やらとにかくお金がかかりました。
うちは貧乏だったので、少しでも安くて基礎がしっかり学べるところということで東宝に入りました。[出典1]
初舞台は
岡崎は自身の初舞台の様子を、
たまたま宮城まり子さんが子役を探していてその目に止まり、新宿コマ劇場で初舞台を踏みました。
この舞台が非常に刺激的でした。宮城さんをはじめ素晴らしい役者さんが揃い、お客さんがいて、スポットライトがついて、音楽があって、喝采を浴びる…何て楽しいんだろうと思いました。
その後も経験を積むたびに、楽しくなって、今に至るまで続けてしまいました。
と振り返っている。[出典1]
アイドル的人気を獲得
1968年にはNHK大阪製作の少年少女向け連続ドラマ『あねいもうと』に妹「とし子」役で主演し、全国的な知名度を得、翌年からは多くのドラマやバラエティ番組に進出。
なかでも1970年9月から放送された『おくさまは18歳』(TBS系)ではキュートなコメディエンヌとしての魅力が開花し、1970年代前半から中盤にかけて国民的アイドルとして人気を博した。
『おくさまは18歳』(TBS系)の大ヒットを受け、TBSは「岡崎友紀18歳シリーズ(ライトコメディシリーズ)」として『なんたって18歳!』、『ママはライバル』を制作。これらは人気シリーズとしてテレビドラマの歴史に一時代を画した。
歌手として
岡崎は1970年3月にシングル「しあわせの涙」で歌手デビュー。
作詞の才にも恵まれ、18歳シリーズの主題歌を始め多くの曲を「岡崎友紀」または『おくさまは18歳』(TBS系)の役名「高木飛鳥」のペンネームで作詞している。
1980年には加藤和彦のプロデュース作「ドゥー・ユー・リメンバー・ミー」を大ヒットさせている。[出典2]
マルベル堂のブロマイド売上No.1
岡崎はプロマイドの老舗・マルベル堂のプロマイド年間売上ベスト146回(最多)を記録している。[出典3]
劇団「NEWS」を立ち上げる
1991年から2000年の間、岡崎は劇団「NEWS」を主催し、若手俳優の指導と定期公演の脚本・演出・振付を手がけた。
作品のテーマには「リサイクル」「エコロジー」などを選び、そのユニークな舞台創りが毎日新聞や読売新聞などの社会面でとりあげられ、話題となった。[出典4]
環境保護活動に参加
劇団発足と時を同じくして、「自然環境保全」「動物保護」の運動を開始。
『ニホンカモシカを守るチャリティ個展』(銀座三越)や各地での講演など、地道な活動を継続している。
また、この十数年は毎年クジラの写真を撮影。アラスカやマウイでザトウクジラの姿を納めた写真は数千ショットに及び、新潮社から写真集『WHALESONG』を出版するに至った。[出典4]
私生活
離婚、そして再婚
岡崎は1978年にソニー共同創業者盛田昭夫の長男盛田英夫と結婚するが、1981年に離婚。
1986年にミュージシャンの岩倉健二と再婚するも、2005年には再び離婚している。
その理由については、
20年の積み重ね。仕事のせいだろうと思うが、普通じゃない機嫌の時があり大変だった。
と語っている。[出典5]