2016年8月15日更新
どんな人?
- 島田洋七は、漫才師、作家、タレント。1971年、団順一と共にコンビ「B&B」を結成。その後1975年に島田洋八を相方にしてコンビB&Bを結成。漫才ブームを巻き起こし、1980年「第8回日本放送演芸大賞最優秀ホープ賞」を受賞するなど数々の賞を受賞した。
- 祖母との思い出を語った本「佐賀のがばいばあちゃん」が600万部のベストセラーとなり、映画化、ドラマ化もされた。また、日本だけでなく韓国、台湾、マレーシアなどでも出版されている。
- 1969年、今の妻となる一般女性と駆け落ちをした。
生い立ち
1950年に広島市に生まれる。幼いころ父親を原爆症で亡くし、小学2年生から中学卒業までは佐賀県の祖母に預けられて暮らした。生活は極貧であったが、祖母から生きるうえでの哲学を学んだという。
島田は自身のことを
オレは“ばあちゃん教”の信者みたいなもんやから
と明かしている。[出典1]
芸能活動
芸歴
20歳で今喜多代・島田洋之介に弟子入り。1971年に団順一とB&Bを結成し、1975年には島田洋八を相方に変えてB&Bを再び結成する。漫才ブームを巻き起こし、1980年代の漫才ブームの先駆者として、NHK漫才コンテストや上方漫才大賞、読売テレビ・上方お笑い大賞などのさまざまな賞を受賞し、特にもみじまんじゅうのギャグは一世を風靡した。[出典3]1983年にB&Bを解散する。理由について島田は、
落ちていく前に、俺が、休もうと思ってやめたんやで
と告白している。[出典1]
現在は漫才師としての活動の傍ら、講演、執筆活動にも取り組む。自分の人生論や経験、祖母との生活などを元に語る講演会は高い評価を得ている。[出典3]
著書『佐賀のがばいばあちゃん』はシリーズ670万部を超えて日本のみならず、英語版や韓国版、台湾版など海外でも出版されている。
2007年1月には、フジテレビ系列でテレビドラマが放映され、全国視聴率20%を超える大ヒットとなった。2009年には、『島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん』で映画監督デビュー。[出典4]
今いくよの死を悼む
2015年5月29日に姉弟子の漫才師今いくよさんの急死を受け、同門の弟弟子であり、漫才コンビB&Bとして1980年の漫才ブームを今いくよ・くるよらとけん引した島田は、
大変面倒見が良く、たくさんの若手芸人を食事につれて行ったりしていました。病気になってからも、なるべく人に心配をかけないように心掛けていらしたようです。とにかく本当にいい人です。ご冥福をお祈りします
と悼んだ。
島田の師匠は、浪速の夫婦漫才師の島田洋之介と今喜多代であり、
弟子入りしたころから、(いくよさんには)何でも相談にのってもらいました。師匠に怒られた時も何度もかばってくれた
と回顧し、今いくよが公私ともに頼りになる姉弟子だったことを明かしている。[出典5]
介護について
妻の母を介護した経験を持っており、自身の意見を述べることがある。
介護のことは、深く考えないほうがいいと思うね。たとえば、人間いつかは死ぬわけやんか。だからといって、普段からずっと「死んだらどうしよう」と考えても仕方がないやろ。それと同じで、「介護が必要になったらどうしよう」と考えても仕方がないと思うね。
(中略)
人生に理想型がないように、理想の介護もないわけやから。介護が必要な人は人口の何%とかだと「何でうちの親が」となるかもしれんけど、こんだけ介護が必要な人はおるわけやからね。そこは深刻に考えても仕方がないよ。暗い気持ちで介護するよりは、明るいほうがええやん。それに、地球上に70億人もおる中で、親を介護できるというだけでもどれだけ幸せか。
と語っている。[出典6]
性格
若いころから将来設計はなかったが、並々ならぬ決意と行動力はあったとして、最初は駆け落ちと上京や歌手になるべく俳優座の養成所に入ろうとしたなど話している。[出典1]
SNSやブログでの様子
Amebaでブログを開設している。
島田のブログはこちら。