2016年7月1日更新
どんな人?
- 横山ノックは1955年に宝塚新芸座に在籍後、横山エンタツに入門。当時のコンビ名「Oスケ・Kスケ」を逆さまにした「ノック」から「横山ノック」名義に改名した。
- 1960年上岡龍太郎、轟盛次と漫才トリオ「漫画トリオ」を結成する。
- 「漫画トリオ」解散後、参議院議員、大阪府知事を務めた。
生い立ち
横山ノックは1932年1月30日、神戸で生まれる。
神戸市立楠木高等小学校卒業後、米軍基地に勤務していた。[出典1]
芸能活動
横山ノックは1956年、宝塚新芸座に入団し、舞台での活動を始める。
同時に、漫才コンビ「秋田Aスケ・Bスケ」のBスケへ弟子入りをし、コンビでの漫才を始める。
この頃の横山ノックの芸名は「秋田Kスケ」。
その後、事務所移籍などの環境変化からコンビを解消し、「エンタツ・アチャコ」の横山エンタツに弟子入りする。そこで「横山ノック」と名乗るようになり、上岡龍太郎(芸名:横山パンチ),青芝フックとともに漫才トリオ「漫画トリオ」を結成した。[出典2]
横山ノックの「パンパカパーン、今週のハイライト」という語り口は流行語になった。[出典3]
1968年、漫才トリオとして第3回上方漫才大賞奨励賞を受賞。
その後、漫才トリオは解散した。[出典1]
トリオを解散後は政界への道を進んだが、2002年にタレントとして舞台復帰を果たした。[出典1]
私生活
政界で大阪府知事として活躍
トリオを解散した横山ノックは、1977年に全国区参議院に当選し、政界への道を進むこととなった。
さらに、1983年に大阪選挙区参議院に当選し、1995年には大阪府知事に当選した。[出典1]
赤字財政が問題視されていた大阪府を立て直すことを主な目標として掲げ、
「既成政党をノックアウトする」と訴えかけ、史上最高の235万票を獲得し、当選した。[出典2]
しかし、選挙活動中の強制わいせつの疑いが浮上し、1999年には知事を辞職した。[出典2]
強制わいせつ罪により有罪判決
大阪府知事に当選した横山ノックだが、その直後、選挙活動中に「強制わいせつ」をはたらいたのではないかという疑いが浮上。[出典2]
横山ノックは選挙活動中に、選挙カーの中で女性運動員に性的暴行を加えたことを認め、強制わいせつの罪で在宅起訴され、2000年8月、執行猶予付きの有罪判決を受けた。[出典3]
2007年 他界
2007年5月3日、咽頭がんのため死去。享年75であった。[出典3]
かつて同じ「漫画トリオ」のメンバーであった上岡龍太郎(横山パンチ)は涙ながらに
大阪府知事から被告人まで、肩書きを次々と変えたが妻は一度も代えません。大好きなマージャンも弱かったノックさん。英語が話せるのにカタカナが苦手。いつでも、僕らの味方をしてくれた。本当に有難うございました。本当にお疲れ様でした。本当に…さようなら。今日は、涙は似つかわしくない。笑顔と拍手で天国へ送ってやってください。[出典4]
と話した。