2016年6月11日更新
出典:タレントデータバンク
どんな人?
- 阿川泰子は文学座演劇研究所にて演劇を学び、女優として東宝映画『華麗なる一族』『青春の門』などに出演。
- 1978年に1stアルバム『ヤスコ、ラブバード』をリリースして歌手デビュー。当時、阿川の歌声は“シュガー・ボイス”などと評されていた。
- ライブやコンサートを行うほか、エッセイの執筆も行っている。
芸能活動
女優として
阿川は文学座演劇研究所にて演劇を学んだ後、女優として東宝映画『華麗なる一族』、『青春の門』などに出演。
テレビドラマでは『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)や『ウルトラマン・レオ』(TBS系)などに顔を出している。[出典1]
プロボーカリストとして
女優として活躍していた阿川は当時、ジャズ・クラリネットの故鈴木章治を紹介された関係でジャズ・ボーカリストの道を歩みはじめることに。
その後、「鈴木章治とリズム・エース」の専属シンガーとなり、プロボーカリストとしてのキャリアをスタートさせた。[出典1]
ボーカリストの頂点へ
1978年、阿川はビクターより1stアルバム『ヤスコ、ラブバード』をリリースしてメジャーデビューを果たした。
当時、阿川の歌声は“シュガー・ボイス”などと評されていた。[出典1]
1980年には 4thアルバム『ジャーニー』がヒットし、翌年に発売した ラテン=フュージョン・サウンドのオリジナル作品集『サングロウ』は、日本のジャズカテゴリーを超えたエポックメイキングなセールスを記録。これにより阿川はトップボーカリストとしての地位を不動のものに。[出典1]
世界でも高く評価される
1986年、ロンドンのBlue Birdレコードが阿川の楽曲「L.A.ナイト」をシングル化すると、ロンドンのダンスチャート上位に食い込んだ。
これを受け、阿川はジャズ・ワールド誌主催の第2回「日本ジャズ・ボーカル賞」の大賞を受賞する。
1994年にはロンドンや東京のクラブシーンで旧作「スキンド・レ・レ」や「L.A.ナイト」が再流行。
同年9月、日本ではDJによるリ・ミックス・アルバム『カメレオン』が、またロンドンではBeechwood Recordよりコンピレーション・アルバムが発売された。[出典1]
日本人初、教材に採用される
1998年、有名私立高校使用の大学受験生用の教材『プログレス・イン・イングリッシュ』(株式会社エデック発行)内に、阿川が歌った「美女と野獣」、「星に願いを」、「ホール・ニュー・ワールド」の3曲が採用された。
これは日本人初の快挙であり、阿川が長年英語楽曲を歌ってきたことの功績だった。[出典1]
エッセイを執筆
2003年には自身初のエッセイ集『We’ve got mail~恋をするなら』(早川書房)を出版。
ビクターエンタテインメントからは同タイトルのタイアップアルバムもリリースしている。
2005年1月からは都会型フリーペーパー「メンズ・ダイジェスト」に、『ハートフルエッセイ』を1年間連載した。[出典1]
私生活
「100歳になってもきれいなおばあさんでいたい」
2004年、日本クラウンからアルバム『ティアラ』、『アンクレット』をリリースした阿川は、インタビューの中で今後について以下のように語っている。
100歳になってもきれいなおばあさんでいたいから、これからは1日1日を大切にしていきたい。
若い人から養分をたっぷりと吸い取って。一幕では飲んだくれていた時期もあったけど、これからは健康にも気をつけないと。
きっと私が何歳になろうと歌は待っていてくれるはず。
歌っていない歌のほうが多いし、共演したことのない演奏家、訪れたことのない街のほうが圧倒的に多いんですから、第二幕もお楽しみはまだまだあるぞ![出典2]
出典
神奈川県出身。名古屋、椙山女学園高校を卒業後、文学座演劇研究所にて演劇を学ぶ。その後、女優として東宝映画『華麗なる一族』、『青春の門』などに出演。又、TVドラマ『太陽にほえろ』『ウルトラマン・レオ』などにも出演。その女優時代に、ジャズ・クラリネット奏者、故鈴木章治氏を紹介され、ジャズボーカリストの道を歩みはじめる。その後、「鈴木章治とリズム・エース」の専属シンガーとなり、プロボーカリストのキャリアをスタートする。その後は、ソロシンガーとして六本木や赤坂のライブスポットなどで活躍。
出典:タレントデータバンク