2019年5月22日更新
どんな人?
- 高杢禎彦は福岡県の高校に在学中、バンド「チェッカーズ」の結成に参加。メンバーの藤井フミヤ・尚之とは幼なじみである。
- 1983年「ギザギザハートの子守唄」で「チェッカーズ」としてメジャーデビュー。翌年リリースした「涙のリクエスト」が大ヒットし、ファッションなどにも大きな影響を与えた。
- 1992年に「チェッカーズ」解散以降は、歌手、俳優としてドラマや映画、舞台へ出演の他、講演活動などを行う。
プロフィール
本名 | 高杢禎彦 |
生年月日 | 1962年9月9日(62歳) |
身長 / 体重 / 血液型 | 173cm / 63kg / A型 |
出身地 | 福岡県久留米市 |
最終学歴 | 柳川高等学校卒業 |
デビュー年 | 1983年 |
所属事務所 | 高杢企画 |
生い立ち
高杢禎彦は1962年9月9日、福岡県久留米市に生まれる。出身校は柳川高等学校・久留米理容美容専門学校。高校在学中にチェッカーズ結成に参加した。[出典1]
芸能活動
「ギザギザハートの子守唄」でメジャーデビュー
高杢禎彦は1983年、「ギザギザハートの子守唄」でメジャーデビューを果たす。また、この曲はチェッカーズのデビューシングルでもある。高杢は通称「モク」として親しまれた。
低音のコーラスを得意とし、チェッカーズではサイドボーカルを担当した。高杢が作詞やメインボーカルを担当した曲もある。[出典1]
メンバー間で不和。チェッカーズ解散へ
1992年、NHK紅白歌合戦を最後にチェッカーズは解散。[出典1]
解散の背景にはメンバー間に不和があったという。
2003年に高杢が執筆した自伝『チェッカーズ』(新潮社)ではメンバー間で金銭を巡って深刻な対立があったことを暴露している。これを知ったチェッカーズのメンバーだったリードボーカルの藤井フミヤは「高杢を一生許さない」と激怒していた。[出典2]
チェッカーズ解散後もソロとして活動
高杢はチェッカーズ解散後もソロとして活動し、音楽・映画・舞台・講演等で活躍している。
シングル「恥ずかしきことの数々」や、「エンジョイパンク」をリリースした。[出典1]
「エンジョイパンク」はテレビアニメ『マシュランボー』(テレビ朝日系)のエンディングテーマに抜擢された。
2005年には個人事務所「高杢企画」を設立したが、2015年に福岡の事務所『フリーダム』に移籍した。[出典3]
私生活
家族
高杢は1990年12月に結婚し、3人の子供をもうけている。[出典4]
自身の公式ホームページにおいて
好きな言葉: 家族愛[出典1]
と明言しており、家族を大切にしていることがわかる。
胃がんとの闘病生活
高杢は2002年に胃がんに苛まれる。
当時の心境をインタビューで以下のように語っている
なじみの診療所で胃カメラをのんだんですが、最初は余裕だったんですよ。先生もモニターを指して「ここに映るから」なんて。ところが、カメラが何かに引っかかった瞬間、先生が一生懸命モニターを隠そうとしたんです。ごつごつした岩のようなものがはっきりと映ってました。でも、それを見てもがんだと思わなかったんです。がんの家系なのに、自分だけは大丈夫だと信じてた。県立がんセンターを紹介されても、まだ、「がんじゃねぇだろう」と。だから、がんセンターで「決して初期ではありません」と、現実を突きつけられたときは、ショックでした。[出典4]
高杢は一時は恐怖のあまり、逃げ出したい衝動に駆られ、眠れない夜が続いたそうだが、ある日、妻が
「万が一のことがあったら、私も死ぬから。
子供のことは実家に頼もう。2人分の保険金があるから、大丈夫よ」[出典4]
と発言。これに対して高杢は
1人じゃないんだ。自分の肩にはこいつらが乗ってるじゃないか[出典4]
と手術を決心。以後6年間におよぶ闘病生活を送り、無事回復。その後、同じく癌で苦しんでいる人やその家族に勇気や自信を与えられたらと『ガンが教えてくれた大切なもの』(新潮社)という本を執筆した。[出典5]