また当時の葛藤も明かしている。
脳梗塞はあまり痛みがなく、病気という実感がないんです。ところが体は自由にならないから、イライラする。看病してくれたママ(妻)には何度もあたってしまいました。
2003年11月に退院を果たす。退院後は在宅リハビリを続けながら、翌年に萩本欽一と競演する東京・明治座の舞台での復帰を目指し、無事復帰を果たした。
欽ちゃんから、車いすでもいいから出て欲しいと言われました。リハビリ中の病人にかける言葉ではないですが、どうしても坂上二郎が必要だ、早く元気になって、という欽ちゃんらしい激励の言葉だったんです。[出典9]
再び脳梗塞で倒れる
2010年8月13日に自宅のキッチンで脳梗塞の発作を起こし、再び倒れた。この発作により、右半身も不自由になり、ほぼ全身の自由が利かなくなったため、介護を受けながら入院を続けた。[出典2]
脳梗塞でなくなる
2011年3月10日に脳梗塞を発症、76歳で死去した。
死去に際し、コント55号の相方である萩本欽一は、「コント55号は、幕引きです」と唇を噛んだ。最後に会ったのは昨年12月だといい、「二郎さんが握手を求めてきた。温かい手だった。『俺がんばるぞ』という握手だと思ったが、今思えばさよならの握手だったんだなあ…」と涙声で語っている。
元ナンセンストリオの岸野猛は、「同じ時代に上と下とでやっていた仲間。風呂も一緒に入った。僕らがナンセンストリオで売れ出すと、二郎さんは『オレもテレビにでたいよ』と言っていました」と話していた。
岸野の相方を務める原田健二は、「楽屋が一緒だと楽しい人だった。歌と司会をやっていたでしょ。それはうまかったけれど。いつも化粧もしないで舞台にでていましたね。みんなで鉄道慰安に行ったことを思い出します」と振り返った。[出典10]
性格
相方の萩本とは仕事が終わると「じゃあね」とすぐに別れて、一緒に食事もしない関係であった。お互いの領域に踏み込まないと、結成間もなく約束していたという。[出典11]
出演
映画
テレビ番組
出典
- 『訃報 坂上二郎さん 3月10日死去』(マルヤガーデンズブログ)
- 『坂上二郎さん天国へ 欽ちゃん「俺を独りにして…」』(スポニチ)
- 『坂上二郎さんが死去…「コント55号」で国民的人気』(スポーツ報知)
- 『テリー伊藤対談「萩本欽一」二郎さんとは私的な交流がなかったの?』(Asagei plus)
- 『坂上二郎さん初ベスト盤…ジャケ写は倉庫から“発掘”』(ZAKZAK)
- 『[タレント 坂上二郎さん]脳梗塞(1)左手の感覚がない』(読売新聞)
- 『[タレント 坂上二郎さん]脳梗塞(2)発作2日前手に震え』(読売新聞)
- 『[タレント 坂上二郎さん]脳梗塞(3)「飛びます」のために』(読売新聞)
- 『[タレント 坂上二郎さん]脳梗塞(4)舞台復帰へリハビリ』(読売新聞)
- 『浅草芸人たちが涙声で語る下積み時代の二郎さんとは』(ZAKZAK)
- 『萩本欽一が高級車・高級時計への欲を捨てた青島幸男氏の一言』(NEWSポストセブン)