2016年8月3日更新
出典:タレントデータバンク
どんな人?
- 宮崎大輔は、大分県出身のハンドボール選手。日本体育大学在学中に大学を休学し、2年間スペインへハンドボール留学をした経験がある。
- 2003年に大崎電気に入部。同年にアテネオリンピックアジア予選に参加し、2008年1月には日本リーグ通算400得点を達成した。
- 2009年に日本人男子初アルコベンダス(スペイン1部リーグ)に移籍したものの、現在は大崎電気に復帰し、全日本でエースとして活躍している。
生い立ち
よく遊び、よく食べた子供時代
宮崎は生まれも育ちも大分県。当時を振り返り、
子供のときは一日中外で遊んでいたので、本当によく食べましたよ。
小学生のときは寿司を48皿(96貫)、中学生のときはラーメンの替え玉を13杯おかわりしたくらいに(笑)。
おやつ代わりに食べていたのは、いりこ(煮干)と納豆です
と話している。また、1日中外で遊んでいるような子供だったという。[出典1]
選手活動
スペインへハンドボール留学
1989年にハンドボールを始める。
高校時代は、2年次から2年連続でインターハイ得点王に輝いた。
大学は日本体育大学に進学。しかし同大学を休学し、2年間スペインへハンドボール留学をした。
いろんな意味で、自分を変えてくれましたね。
スペインに行く前からハンドボールの全日本には入っていたんですが、僕はビデオ係にしかすぎなかった。
当時は下っ端の選手が試合のビデオを撮らなければいけなかったんですよ。
それがスペインで2年間過ごしたことで、全日本の主力になることができた。
スペインでプレーしたことで、ハンドボールへの考え方が変わりました。
スペインの選手たちはボールへの執着心が、とにかくすごかった
と宮崎。また、試合で自分のミスが多くて悩んでいる際にスペイン人の友達に言われた以下の言葉に感銘を受けたという。
オレだったら、たとえミスをしても、自分のプレーを貫き通す。
なぜなら、監督はオマエのプレーを評価したからこそ起用しているんだ。
オマエは自分のプレーを貫き、コートの外に出されたときに初めて反省すればいい[出典2]
スペイン1部リーグに移籍
後に宮崎は、大学を中退。2003年には大崎電気に入部した。
同年、アテネオリンピックアジア予選に参加し、2005年1月には世界選手権に出場。
2008年1月20日、日本リーグ通算400得点を達成した。
翌年6月、日本人男子初アルコベンダス(スペイン1部リーグ)に移籍が決定。[出典4]
当時宮崎は「伸び悩んでいる自分がいて、環境を変えなきゃいけないと思った」という。
また、この移籍には宮崎の”五輪出場”の夢も関係していた。[出典5]宮崎は、
国際試合を通じて、オリンピックに出るには、個々を鍛えなきゃいけないと素直に思うようになったんです。
チーム力というのもありますが、まずは個人の力をもっと強くして、チーム力の基となるレベルを上げる必要があると。
やっぱり日本リーグだと徐々に、甘えみたいなものが出てきてしまうし、海外に出ないと変えられない部分も見えてきたんです。
大学を休学して約2年間留学したときに、2部まででしかプレーできなかったので、1部でやりたいという思いが強く残っていた、という理由もありますね
と明かした。[出典3]
だが、2010年6月には大崎電気に復帰しており、現在は全日本でエースとして活躍している。[出典4]
私生活
娘にデレデレ?
宮崎は2013年10月12日に娘が誕生したと自身のブログで報告している。同ブログでも、
この子は絶対可愛くなると直感で感じました[出典6]
と綴っている宮崎だが、仕事で俳優・杉浦太陽の公開生放送番組にゲスト出演した際も
一番の宝は子供ですよね
と親バカっぷりを展開。さらに、
子供の話になると熱くなって、つい「うちの子が」ってなっちゃう
と終始目尻を下げっぱなしだったという。[出典7]
出典
1981年6月6日生まれ、大分県出身のハンドボール選手。大分国際情報高校卒業後、日本体育大学入学。在学中、休学しスペインに留学。2003年に大崎電気に入部。同年、アテネオリンピックアジア予選参加。2005年1月には世界選手権出場。2008年1月20日、日本リーグ通算400得点達成。2009年6月、日本人男子初アルコベンタス(スペイン1部リーグ)移籍後、2010年6月大崎電機に復帰。2019年3月大崎電気を退団、同年4月に日本体育大学に再入学。
出典:タレントデータバンク