2017年3月2日更新
どんな人?
- 崔洋一は東京綜合写真専門学校中退後、照明助手として映画界へ。演出部へ転向後の1976年に映画『愛のコリーダ』『最も危険な遊戯』で初のチーフ助監督を務める。
- 1981年にテレビ映画『プロハンター』監督デビュー。その後、1983年に『十階のモスキート』で本格的映画監督としてデビューした。同作はヴェネツィア国際映画祭に出品された。
- 2004年には、日本映画監督協会第8代理事長に就任。日本国籍ではない理事長は初となる。また、2007年からは宝塚造形芸術大学(現: 宝塚大学)にて教授に就任している。
生い立ち
幼少期のエピソード
1949年に長野県で在日朝鮮人の父と日本人の母の間に生まれる。[出典1]
4歳から中学3年まで練馬区で育ち、出歩くのが大好きで、北は石神井公園から南は吉祥寺の映画館まで半径5キロが放課後の行動圏内であったとしている。[出典2]
芸能活動
芸歴
写真専門学校を経て照明助手として映画界入りをする。1972年に助監督となり、26歳のときに映画監督の大島渚による『愛のコリーダ』でチーフ助監督に抜擢され業界に名を馳せた。
1983年に『十階のモスキート』で監督デビューを果たし、ヴェネツィア国際映画祭にも出品された。1996年には韓国の延世大学へ1年間留学する。
2004年に『血と骨』で日本アカデミー賞の監督・主演男優・主演女優の各最優秀賞を受賞、同年から日本映画監督協会の理事長を務めている。
映画『御法度』で近藤勇役を演じるなど映画の出演もこなす。[出典1]
『月はどっちに出ている』のエピソード
ブルーリボン賞作品賞や日本アカデミー賞など53の賞を受賞した映画『月はどっちに出ている』は1993年に公開されたが、原作の小説『タクシー狂躁曲』の出版は1981年で、映画化までには12年かかった。
映画化は表紙がポップで可愛く、たまたま手に取ったことが始まりだが、内容が個人的過ぎて地味と映画化は難航する。
さらに当時はバブルということもあり、崔の元にはCMの仕事が次々と舞い込み、3か月働けば1年間食べていけるほどの勢いであった。しかし友人の「CMに手慣れた崔洋一はつまらなくなってきた」という言葉が自身を大きく変えたとしている。
クリエイターが、ひとつのことに手慣れる怖さにも気づいて。反骨心が『月はどっちに出ている』をよみがえらせたんです。[出典3]
今後の活動
2020年に開催される東京五輪について、前回の東京五輪では市川崑の『東京オリンピック』という映画があったことを踏まえ、人間が永遠に記憶し続けなければならない物語、そういうものに2020年の東京五輪に向けて何らかのコミットをしていきたいとしている。[出典4]