2024年12月16日更新
出典:タレントデータバンク
齊藤明雄に関係するタレント
齊藤明雄は1955年(昭和30年)2月23日、京都府の生まれ。同年(1955年)に生まれたタレントには、12月16日生まれの俳優の森一や1月7日生まれの声優の町田政則などがあげられる。同郷である京都府出身のタレントにはタレントの長代聡之介やナレーターのSONMIがあげられる。
花園高等学校を経て大阪商業大学へ進学。全日本大学野球選手権大会で2度の準優勝投手に輝いた逸材として、1976年秋のドラフトで大洋から1位指名を受け入団。球団は斉藤への期待を込め、秋山登や山下律夫らが付けたエースナンバーの17を与えた。1977年は、新人ながら開幕1軍。8月30日の対巨人戦で、王貞治の本塁打世界記録(755本)達成を阻止したうえプロ初完封、一躍脚光を浴びる。このシーズンは8勝9敗で、西本聖を押し退けて新人王を獲得。翌1978年は、新築された横浜スタジアムのオープニングゲームに先発。見事に完投勝利し、同球場の公式戦勝利投手第一号となる。この頃からトレードマークの口ひげをたくわえるようになる。1981年には遠藤一彦と入れ替わりで抑え投手に転向。5勝15敗10Sをあげる。1982年登録名を「明雄」から「明夫」に改名。当時の日本記録である8連続Sとシーズン30Sを達成、リーグ最多セーブを記録する。さらに規定投球回に達し最優秀防御率のタイトルも獲得。1983年には10勝8敗22Sで最優秀救援投手のタイトルを獲得。1986年には2度目の最優秀救援投手となる。しかし、1988年の開幕直後に右膝半月板を損傷し、先発投手に再転向。7月3日の対中日戦で、右投手では史上初、左右あわせても史上3人目の通算100勝100Sを達成する。1993年には投手兼任コーチに就任するも持病の右膝痛が悪化し(主治医には「60歳代の膝と同じ状態」と言われた)、現役引退を表明。10月20日の対ヤクルト戦で通算600試合登板を果たし、2日後の10月22日の対広島戦で現役最終登板。引退後は1994年~1995年フジテレビの解説者、1996年~1999年横浜一軍投手コーチ、2000年~2006年フジテレビおよびニッポン放送解説者、2007年~2008年、横浜一軍投手チーフコーチに復帰。2009年からは再びフジテレビ、テレビ神奈川の解説者として活躍している。
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