2017年4月12日更新
どんな人?
- ミヤコ蝶々は「日本の元祖女芸人」と呼ばれている。父親が旅回りの「都家蝶々一座」を結成し、7歳で座長となった。
- 1942年、吉本興業より招かれて吉本興業の舞台へ出演を始める。
- 2000年10月12日に死去。享年80歳
生い立ち
7歳で座長に
ミヤコ蝶々は東京で家業を営む裕福な家庭に誕生。4歳の時父親が芸者と駆け落ちし、神戸へと移り住んだ。芸能好きだった父親は神戸でその当時はやっていた漫才を見るため、蝶々を連れて毎日のように寄席に通ったという。[出典1]
ある日父親が
「ほな、うちも一座を持とうやないか!座長は鈴子や!(ミヤコ蝶々)」[出典1]
といい、旅回りの「都家蝶々一座」を結成した。当時蝶々が7歳だったという。[出典1]
芸能活動
吉本興業の舞台へ
ミヤコ蝶々は 1942年に吉本興業からの誘いを受けて吉本の舞台へ出演することになる。
当時各地の芝居小屋から引っ張りだこだった蝶々は吉本興業からも高く評価されていたことから、公演のトリである大看板の一つ前に登場する「モタレ」に抜擢されたという。
しかし、いきなりの抜擢に周囲の芸人は反感を抱き、蝶々が「モタレ」をするならトリは務めない、と出演を拒否する芸人もいたと明かしている。[出典1]
私生活
不倫と2度の離婚
吉本興業の舞台に出演するようになり、芸人仲間から辛く当たられる事も多かった蝶々を見守っていた当時人気落語家三遊亭柳枝と不倫関係となる。
その後2人は結婚するが、三遊亭柳枝の女癖が直らず、6年の結婚生活を経て離婚へ。
その後再婚した夫・南都雄二との関係は、南都の愛人が身ごもったことから離婚することとなった。[出典1]
73歳で生涯を終える
蝶々は女芸人としてテレビや舞台で活躍を続ける一方、生まれつき腎臓が片方しか動いていないなど、元々健康面には恵まれていなかった。70歳を過ぎた頃から入退院を繰り返すようになり、2000年10月12日に死去。享年80歳だった。[出典1]