2016年8月4日更新
どんな人?
- 三宅宏美は、近日開催予定のリオデジャネイロ五輪において、女子48キロ級へ出場する重量挙げ選手。中学3年生から同競技を始めた。
- 2006年の世界選手権で銅メダルを獲得。2011年の全日本選手権では、トータル207キロの日本新記録を樹立した。
- 父は1968年のメキシコ五輪のメダリスト。三宅もロンドン五輪で日本女子重量挙げ初のメダルを獲得し、史上3組目の親子メダリストに輝いた。
生い立ち
父と伯父は元五輪選手
1985年11月18日、埼玉県に生まれる。[出典1]
父は、1968年にメキシコ五輪で銅メダルを獲得。[出典2]
伯父も1964年東京、1968年のメキシコ五輪をフェザー級で連覇している。[出典6]
選手活動
親子二人三脚で
三宅の転機は、中学3年生の時にあった2000年のシドニー五輪。
開会式に「わたしも出たい」と感動したことがきっかけだ。
それから、父に「(重量挙げを)教えて」と頼んだものの、最初は取り合ってくれなかったという。
しかし、自身が16歳でクリアした42.5キロを三宅が挙げた姿に父は直感した。
世界で戦える。8年後の北京五輪を一緒に目指そう。投げ出したら許さんぞ
とここから三宅と父の二人三脚が始まった。[出典3]
父との衝突
三宅は「練習した分だけ記録が伸びるのが楽しい」と、めきめき力をつけたという。[出典3]
その結果、構想より4年早くアテネ五輪に出場したものの、腰痛が原因で9位。表彰台を狙った北京五輪も減量ミスで6位に終わった。
その後、股関節痛に苦しみ、精神的にも行き詰まって父と衝突。2009年3月には家出をした。
向かったのは、シドニー五輪に出場した平良真理がいる沖縄。
平良が部活を指導する県立高校で翌日から一緒に練習したが、三宅は1週間もすると「やっぱり私は三宅家の娘だから」と新座市の自宅に帰宅したという。
以降は、頼りっぱなしだった父との距離感も変わり、自ら練習メニューも考えて自立した。
成果は記録となって表れ、53キロ級では毎年のように日本記録を更新。
2011年の全日本選手権では、トータル207キロの日本新記録を樹立した。[出典4]
2006年の世界選手権では銅メダルを獲得している。[出典3]
3度目の五輪で銀獲得
2012年3月、右脚付け根を痛めて同年4月の全日本選手権は欠場したが、3度目の五輪へ自信が揺らぐことはなかった。
そして、3度目の出場となったロンドン五輪。日本女子重量挙げ初のメダルを獲得した。
三宅は、スナッチで日本新記録の87キロをマークして2番手につけると、ジャークでも日本記録の110キロを記録。計197キロで銀メダルを獲得した。
また、メキシコ五輪重量挙げフェザー級で銅メダルを獲得した父との史上3組目の親子メダリストに輝いた。
三宅は観客に向けて満足そうな表情で右手を振り、
本当に夢のようです。実感はないですけど、本当に苦しかった。
北京からたくさん練習を積んできて。いろんな応援してくれた人からパワーもらいました。
父(銅)より、一個上に行けたのでうれしい。うふふ
と喜びを爆発。
親子でのメダル獲得は、体操の相原信行と豊、塚原光男と直也に次いで、日本勢史上3組目の快挙である。父と歩んだ12年「表彰台に上がるまで絶対にやめない」と競技を始めたときに親子で交わした約束を、3度目の五輪でついに現実のものとした。[出典4]
三宅は、近日開催予定のリオデジャネイロ五輪において、女子48キロ級への出場が決定している。[出典5]
私生活
アセット入社
三宅は投資会社アセット・マネジャーズへ入社している。
入社内定時は記者発表会を行い、
社会人として競技を続けられることに感謝している。北京では日の丸を揚げることを目指す
と緊張気味に抱負を話した。
同社は「ウエイトリフティング部」を創部しており、監督には三宅の父である義行氏が就任している。当時、重量挙げの女子を企業がチームとして支援するのは初めてで、三宅は
進路には不安があったけれど入社できてうれしい。自覚を持って頑張る