どんな人?
- 上原謙は俳優。戦前戦後の日本映画界を代表する2枚目スターのひとりとして知られる。
- 松竹入社後、映画『若旦那・春爛漫』でデビューし、次作『彼と彼女と少年達』では主演を務めた。出演したテレビドラマ『愛染かつら』(フジテレビ系)は空前の大ヒットを飛ばし、上原の役者としての地位を確立した。
- 女優・小桜葉子との間に後に俳優となる長男・加山雄三が誕生している。
生い立ち
音楽とともに成長
中学時代はボーイスカウトに所属し、音楽隊でトランペットを吹いていた上原。
1929年立教大学に入学すると、立大シンフォニー・オーケストラにてトランペットやフレンチ・ホルンを担当した。[出典1]
芸能活動
友人らのいたずらで芸能界入り
1933年、松竹蒲田撮影所が映画『理想の夫』を制作するにあたり、「あなたの理想の夫を推薦してください」と募集をかけたところ、上原の友人たちがいたずらで彼の写真を送り、入選してしまう。
そのうえ、面接に行った上原は俳優として採用されることとなり、俳優業に対して興味はなかったものの、「とりあえず大学を卒業してから(俳優になる)」という約束を交わしたという。[出典1]
俳優デビュー
1935年、上原は松竹に入社。同年には清水宏監督の『若旦那・春爛漫』でスクリーンデビュー。
続く同監督作『彼と彼女と少年達』では早くも初主演を務め、知的で上品な2枚目ぶりが評判となった。
以後、上原は共演した桑野通子と都会の恋人同士を演じ続けることとなり、”アイアイ・コンビ”と呼ばれて親しまれた。[出典1]
徴兵、そして復帰
上原は映画『有りがたうさん』出演後、すぐに徴兵されて台湾へ渡った。しかし急病で入院を余儀なくされ、3か月で帰国し除隊処分に。
復帰作となったのは映画『自由の大地』。
その後は佐分利信、佐野周二とともに“松竹二枚目三羽烏”として五所平之助監督作『新道』に主演。
1937年にはさらに三羽烏を前面に押し出した島津保次郎監督の『婚約三羽烏』がブレイクした。[出典1]
メロドラマ『愛染かつら』が空前の大ヒット
1938年、テレビドラマ『愛染かつら』(フジテレビ系)が空前の大ヒットとなり、自身の地位を決定的なものにしたが、本人はああしたメロドラマへの出演をよく思っていなかったらしい。
その反動からか、1940年には戦争映画『西住戦車長伝』で実在の戦場の英雄・西住小次郎中尉を演じ、1943年には木下恵介監督のデビュー作『花咲く港』でペテン師を演じるなど、それまでのイメージを払拭するような役柄に挑戦している。[出典1]
私生活
女優・小桜葉子との結婚
1936年、上原は周囲の反対を乗り越えて女優・小桜葉子と結婚。
1937年4月11日には後に俳優となる長男・加山雄三が誕生している。
しかし1970年に小川が急逝。38歳もの年齢差がある一般人女性と再婚したが、後に離婚した。[出典1]
加山雄三の芸能界入りに反対!?
上原の息子である俳優・加山雄三は、自身の芸能界入りを上原に反対されたという。
「僕は芸能界に入ろうと思ってる」って言ったら、「とにかくお父さんは反対だ」と。
その後何度もやり合って、やっとOKが出たんです。だから、親父の名前を頼るとか、そういうことは一切していない。
あっちは天下の二枚目だけど、自分は出来損ない。だから、「男は顔じゃねえ、心や体力で勝負だ!」って、最初の頃からずっと思ってました。[出典2]
メニエル氏症候群を羅患
上原は1959年にメニエル氏症候群を患った。[出典1]
急逝
1991年11月23日、上原は急性心不全のため82歳でこの世を去った。
上原は亡くなる同日の午前1時過ぎまで、加山雄三の自宅で82歳のお祝いパーティを催していたという。[出典1]