2020年8月26日更新
出典:タレントデータバンク
どんな人?
- 寺脇康文(てらわきやすふみ)は、日本で活動する俳優。大阪府出身岐阜県育ちの1962年2月25日生まれ。アミューズ所属。
- 高校卒業後に名古屋の俳優養成所を経て、1984年に三宅裕司主宰の劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」へ入団。
- 1984年に初舞台を経験し、以降劇団の舞台に多数出演。1998年公開の映画『満月のくちづけ』でスクリーンデビュー。
- 1991年放送のドラマ『刑事貴族2』(日本テレビ)で水谷豊と共演し、2000年に放送開始された人気シリーズドラマ『相棒』(テレビ朝日)で再共演を果たしている。
- 1994年に「スーパー・エキセントリック・シアター」を岸谷五朗と共に退団し、企画ユニット「地球ゴージャス」を結成。数々の舞台を公演している。
プロフィール
芸名 / 読み | 寺脇 康文 / てらわき やすふみ |
誕生日 | 2月25日 |
出身地 | 大阪府 |
身長 / 体重 / 血液型 | 180.0cm / 74.0kg / O型 |
星座 / 干支 | うお座 / 寅年 |
出典:タレントデータバンク
▼寺脇康文(左)
生い立ち
寺脇康文は、大阪府出身岐阜県育ちの1962年2月25日生まれ。身長180cm。アミューズ所属。[出典1][出典2]
小学生の頃から憧れた芸能界
寺脇康文は幼い頃からテレビに出る人に憧れていたそうで、小学校の卒業文集には「漫画家かスターになりたい」と書いている。
漫画家では永井豪に憧れており、スターは当時大人気だったドリフターズの加藤茶に憧れを抱いていたという。[出典3]
流されるがままだった青年時代
幼い頃は夢があった寺脇康文だが、中学高校では将来について考えることがなくなり、そうこうしている内に高校卒業が迫って来ていた。
周りの同級生たちは大学進学を選んでいたため、自身もそれに則り「とりあえず」という気持ちで大学進学を決めている。
しかし、特に行きたい学部もなく、なんとなくで挑んだ受験では当然不合格。翌年から予備校へ通う浪人生となるが、勉強に身が入らない状態だったそう。[出典3]
浪人生時代のアルバイトで人生が変わった
浪人生としても身が入らなかった寺脇康文は、流れに身を委ねるようにアルバイトを開始。
当時はまだ給料が手渡しだった時代であり、寺脇も初給料は手渡しだった。
給料を受け取った帰り道、10万円の入った給料袋の中を確認し、「これから自分はどうやって稼いでいくんだろうか」「親に食べさせてもわうのではなく、これからは自分で稼いで食べていかなくてはいけない」と実感。
何をして稼げばいいか自問自答した時、「芝居やテレビの仕事だったらできそうだ」と思い、役者になることを決めたという。[出典3]
役者になるため行動を起こす
役者になるという決意を固めた寺脇康文は、「どこかに所属しなくては」と思い立ったものの、どうすればいいのか分からなかった。
そのため一先ず東京へ足を運び、四ツ谷にある大手プロダクション周辺や原宿を歩き回り、スカウトされるのを待ったが、一向に声は掛からなかったという。
その後、劇団に所属することを思いついた寺脇は、情報誌を頼りに複数の劇団が主宰する舞台を観劇した。そんな時出会ったのが「スーパー・エキセントリック・シアター」だったという。
コメディアン・三宅裕司が主宰する同劇団の舞台を見た時、初めて舞台を見て大笑いしたそう。「ここなら自分もお客さんに笑いを提供できるかもしれない」と思い、入団を決意した。[出典3]
▼三宅裕司(左)
芸能活動
役者としての活動
寺脇康文は、演劇界でも人気の高い劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」のオーディションに参加。
その人気の高さから、オーディションは40倍という倍率だったが、見事合格を果たし、1984年に入団を果たした。[出典3]
同年、舞台『超絶技巧殺人事件』で役者デビューを果たし、以降同劇団の舞台に多数出演。
1984年に三宅裕司主宰の劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」(SET)へ入団。1994年、岸谷五朗と共にSETを退団し、演劇ユニット「地球ゴージャス」を結成。1996年4月の放送開始からTBS「王様のブランチ」の総合司会を10年間務める。
出典:タレントデータバンク