2016年7月5日更新
どんな人?
- 小野ヤスシは鳥取県出身のタレント、コメディアン、俳優。1961年に結成された「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」の初代メンバーだったが、いかりや長介と意見が合わず脱退した。
- その後、バンド「ドンキーカルテット」を立ち上げるも解散となり、解散後はコメディアンとしてテレビの司会やリポーターを務め人気者となった。
- 2012年6月28日午後、腎盂(じんう)がんのため、都内の病院で息を引き取った。72歳だった。
芸能生活
芸歴
成城大学中退後、バンドボーイを振り出しに音楽修業。
1959年にロカビリーバンドでボーカルとしてデビューした。[出典1]
1961年には同年に結成されたザ・ドリフターズの前身「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に加入し、初代メンバーとなる。
しかし、ザ・ドリフターズのいかりや長介と意見が合わず、脱退。
1964年にリーダー兼ボーカルとして、バンド「ドンキーカルテット」を立ち上げた。
1970年解散後は、主にテレビを中心にタレントとして活動した。[出典2]
タレント・俳優活動
『スターどっきり(秘)報告』(フジテレビ系)ではリポーターを経て、1988年から8年間にわたり6代目司会者を務めた。
そのほか『なるほど!ザ・ワールド』(フジテレビ系)、『11PM』(日本テレビ系)など多数のバラエティー番組に出演。軽快なトークが人気を呼んだ。[出典1]
俳優としては『シカゴ』、『新オズの魔法使い』などミュージカルで活躍。
『十津川警部シリーズ』(TBS系)、『火曜サスペンス劇場 下町・銭湯騒動記』(日本テレビ系)、『暴れん坊将軍5』(テレビ朝日系)などドラマにも多数出演した。[出典1][出典2][出典3]
参院選に出馬
1995年、小野は参院選に無所属・自民党推薦で鳥取選挙区から立候補するも、落選した。[出典1]
私生活
趣味
野球好きな小野は、熱烈な東京ヤクルトスワローズファンだった。
著書である『祝優勝!ヤクルトスワローズ』は、趣味が高じ発売に至った。[出典2]
闘病生活
2010年1月に腎盂(じんう)腫瘍で右腎臓を全摘出。
2カ月後の同年3月に行われた芸能生活50周年を祝うパーティーで闘病生活を告白した。[出典2]
小野は、
手術は12時間半。術後3日間は10本の(注射)針が刺さっていました。きょう、健康な体で皆さんに会いたかった。
と感無量の表情で語っていたという。
2012年6月28日午後、小野は腎盂(じんう)がんのため、都内の病院で息を引き取った。72歳だった。[出典1]
通夜
生前、小野は
葬儀はしんみりせず、盛大にやってくれ
と家族に話していたという。斎場で流す音楽はカントリーミュージック、最後は大好きだったエルビス・プレスリーの曲で送り出すなど段取りを細かく指示していた。[出典4]
芸能関係者を中心に約1000人が参列した通夜では、エルビス・プレスリーの曲が流れる中、献花が行われた。
遺体には芸能生活50周年パーティーで用意したタキシードが着せられ、棺には大好きだったゴルフのクラブと麻雀パイが納められた。
ザ・ドリフターズ時代から小野と交流があった加藤茶は、
欲を言えば、あと10年ぐらい長生きしてほしかった。“お互いに年を取ってボケてコントをやったら面白いね”と言い合っていたんですが、できませんでしたね
と別れを惜しんだ。[出典5]
性格
1987年くらいから、小野と『スターどっきり(秘)報告』(フジテレビ系)で共演していたタレント・女優の松本明子は、
私はリポーターで25年前くらいから(小野さんに)大変お世話になりました。「松本~、もうちょっと女らしくしろよ、松本~」とよく愛のあるおしかり?の言葉を掛けられました。人を笑わせ、なごませる名人でした。
と語っている。[出典4]
交友関係
加藤茶は、小野と50年来の付き合いだった。
加藤は、ザ・ドリフターズ時代から小野のことを「本当の兄のように慕っていた」という。[出典6]
また、小野は闘病生活のなか、加藤のために一番強い抗がん剤を投与し、加藤の結婚披露宴の司会を務めたというエピソードもある。
当時を振り返り加藤は、
あの時は一番強い抗がん剤を投与していた。それなのに“大丈夫だから。加藤の結婚式だから俺がやるから”ってやってくれた。世話になりっぱなしでした。
と小野への感謝の思いを語っている。[出典7]
そのほか、高木ブー、堺正章、里見浩太朗らとも交流が深かった。[出典8]