2016年6月8日更新
出典:タレントデータバンク
どんな人?
- 松島トモ子は、日本の歌手、女優、タレント。満州国奉天で生まれ、東京都目黒区で育った。本名の奉子は生誕地の奉天に由来する。
- 3歳からバレエを始め、1949年に芸能界デビュー。1986年には、テレビ番組の撮影でケニアを訪れた際にライオンとヒョウに襲われ、ギブス姿で行った記者会見は話題になった。
- 現在は映画やテレビにとどまらず幅広く活躍。石垣食品のミネラル麦茶などCMにも出演している。
生い立ち
幼いころからバレエを始め、母がマネージャーを務める
松島トモ子は1945年7月10日、満州国奉天で生まれる。生まれて間もなく満州国から引き揚げ。以降東京都目黒区で育つ。[出典1]
3歳で石井漠舞踊研究所に入門し、石井漠先生の元でバレエを学び始める。
母の志奈枝が松島トモ子のマネージャーを務める。[出典2]
芸能活動
阪東妻三郎のスカウトで子役として活躍
映画館の劇場ニュースにて石井漠舞踊研究所が取り上げられ、映っていた松島を見た阪東妻三郎がスカウト。4歳の頃には子役として活躍していた。[出典2]
童謡歌手としても活躍
松島トモ子は童謡歌手としても活躍しており、1953年に「村の駅長さん」でデビューしている。その他にも、「雨に唄えば」、「三匹の子豚」、「七つの子」、「かもめの水兵さん」、「おもちゃのチャチャチャ」などを歌っている。[出典3]
少女雑誌の表紙を10年間1人で飾る
松島トモ子はモデルとしても活躍し、少女雑誌『少女』では、10年間もの間、松島1人で表紙を務めた。[出典4]
また、芸能雑誌『週間平凡』でもグラビアアイドルとして活躍していた。
ライオンとヒョウに襲われた女優
▼撮影中にライオンに襲われる
1986年、ドキュメンタリー番組の撮影でケニアでライオンと生活しているというジョージ・アダムス氏を取材しに行った松島トモ子。ライオンの保護区に到着し、ジョージの後に続いて車を降り、集まってきた子ライオンを見つめているところを、背後にいたライオンに襲われた。
このとき、ライオンに突き飛ばされ本人は気絶していたが、取材スタッフによると噛みつかれ、10mほど引き摺り回されていたという。頭が割れ、瀕死状態であったが、僻地であるため付近に病院はなく、小型飛行機で遠方の病院に運ばれた。
▼なんと同じ番組の取材中にヒョウに襲われる
医師は10日間の入院を指示したが、松島は3日で病院を抜け出した。そしてジョージの元へ戻った。
ヒョウを4m50cmのフェンスで囲った安全地帯から撮影していたが、そのフェンスを乗り越えて潜んでいたヒョウに体当たりされ、首を咥えられて大量出血するも、やはり周囲に病院はなく、小型飛行機で遠方の病院に運ばれた。
▼このような災難に遭いつつもすべての撮影を終わらせる
病院で第四頚椎粉砕骨折という診断を受けた松島。しかし、なんとまた再度ジョージさんの元へ戻り、予定していた撮影をすべて終わらせた。[出典7][出典8]
この件について、松島は以下のように語っている。
事故は心が痛みますが、動物に罪はない。私がいうのも何ですが、“動物が好き”というからには“動物の怖さ”も含めて好きにならなきゃいけないと思うんです。[出典5]
私生活
ミュージカルを勉強するため留学していた
大東学園高等学校卒業後、アメリカのザ・マスターズ・ハイスクールに2年間留学。
当時、松島はレギュラー番組を5本持っていたがそれを手放して渡米したと語っている。[出典6]
珍しかったからね。あのころの高校生の叶わぬ夢っていうとアメリカ留学だったのよ。
とにかく学校と仕事が忙しくて、(5本のレギュラーを持っていた当日の生活を手放すことも)もったいないとは思いませんでした。とにかくアメリカに行きたかった。
[出典6]
また、このとき留学日記『ニューヨークひとりぼっち』(集英社)はベストセラーになった。
出典
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『徹子の部屋』(テレビ朝日系)2016年04月12日放送 より
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週刊ポスト2012年5月4・11日号 より
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『大竹まこと ゴールデンラジオ!』2015年4月23日放送 より
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『解禁!暴露ナイト』(テレビ東京系)2013年4月25日放送 より
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『“恐ろしすぎて語ることができなかった” 松島トモ子、ライオンだけではなくヒョウにも殺されかけていた!』(Techinsight)
旧満州(現・中国東北部)生まれ。母とともに日本に引き揚げ、3歳からモダンダンスを石井漠に学ぶ。映画『獅子の罠』でデビュー。以後、名子役として『鞍馬天狗』をはじめ、80本の映画に主演。雑誌『少女』の表紙を10年間一人で務める。また、童謡、ポピュラー、歌謡曲の歌手としても活躍。19歳でニューヨーク ザ・マスターズスクールに留学。卒業後、マーサ・グラハム(モダンダンス)に入門し、スカラシップを授かる。帰国後、舞台・テレビ・ラジオ・講演など多方面で活躍。特に語学力(英語)を活かした番組リポーターとして世界を周り著名人と交流を深めている。(元・ソビエト連邦書記長 ゴルバチョフ、キム・フック、ファッマ・ロバ、クリストファー・リーブスなど)1996年、平和慰霊公苑を守る会会長に就任。1998年、車いすの青年からの一通の手紙がきっかけとなり出会った「車いすダンス」競技をライフワークとして活動。2000年に芸能生活50周年を迎える。ライオンとヒョウに襲われ第四頸椎を粉砕骨折したが、奇跡的に障害が残らなかった経験を踏まえ、感謝の気持ちを大切に打ち込んでいる。2013年、TBSラジオ『土曜ワイド「永六輔・その新世界」』にレギュラー出演し、大きな話題を呼ぶ。TV・ラジオ出演・講演・歌など幅広く活躍している。
出典:タレントデータバンク