どんな人?
- 池玲子は女優。東映ポルノの主演女優の一人であった。
- 1971年に『温泉みみず芸者』で映画主演デビュー。
- 1977年5月に覚せい剤所持・同使用の疑いで逮捕後に不起訴。同年10月には賭博により再び逮捕され、略式起訴で罰金10万円の命令を受けた。
芸能活動
「日本初のポルノ女優」
池玲子は日本で初めて「ポルノ映画」という名称が使われた、1971年7月に封切られた東映の映画『温泉みすず芸者』に出演した。
同作に主演した池玲子は、当時まだ17歳だったという。
池玲子は「日本初のポルノ女優」として活躍。『温泉みすず芸者』への出演以降も、『女番長ブルース』『現代ポルノ伝・先天性淫婦』と次々とヒット作を生み出した。
あまりの活躍に服を着る暇もないくらい、といわれたほどだったという。[出典1]
日本のマリリン・モンローと称された
日本初のポルノ女優と呼ばれた池玲子は、96センチというバストと抜群のプロポーションから、“日本のマリリン・モンロー”とも称されていた。[出典2]
菅原文太の情婦役
池玲子は「日本初のポルノ女優」として人気を博した。
俳優の菅原文太とも多くの作品で共演している。主な共演作品は1974年公開の映画『新仁義なき戦い』や1975年公開の映画『県警対組織暴力』で、池は菅原文太の情婦役として出演している。[出典3]
「ゴールデンアロー賞新人賞」などの受賞
池玲子はポルノ映画への出演で、様々な映画賞を受賞している。
東映のポルノ映画シリーズは一流の監督と俳優を起用した作品で、それまでのピンク映画とは一線を画する作品として評価を得た。
池玲子は1971年に日本映画テレビ制作協会賞新人賞、1972年にはゴールデンアロー賞新人賞を受賞し、一躍トップスターの仲間入りを果たした。
池玲子が主演した映画は1本一億数千万円の興行収益を挙げる人気女優となり、1975年までに合計27本の作品に出演した。[出典1]
2年間の謹慎を経て女優復帰
売れっ子女優として活躍していた池は、2度の逮捕により2年間の謹慎生活を送った。
謹慎生活を経て、池は、
私には女優の道しかない。[出典1]
と女優復帰を志した。
その後、1979年公開の映画『黄金の犬』で殺し屋に犯される役を熱演し、女優復帰。活動を再開した。しかし、1981年6月に活動の幅を広げようと事務所を移籍したところ、移籍先の事務所が倒産したという。[出典1]
私生活
1度目の逮捕
池玲子は1977年に、覚せい剤を受け取ったとして逮捕されている。
警視庁が覚醒剤の密造、販売の地下組織などについて捜査を進めており、捜査は1都4県にまたがる大掛かりなものだったという。
捜査の結果、覚せい剤に関連したグループが4つ浮かび上がったといい、次々と容疑者が逮捕された。その逮捕者の中にはモデルや芸能関係者が含まれていたという。
その中のひとりが取り調べで、池玲子が覚醒剤をもらっていたと供述したことから、池は逮捕される。逮捕後、池は12日間、留置場での生活を送った。その後の取り調べの結果、池玲子は証拠不十分で不起訴となった。
池は釈放後、
私は絶対、暴力団の愛人なんかではないし、密売人なんかではありません。[出典1]
と語っている。[出典1]
2度目の逮捕
池玲子は覚せい剤での逮捕後、イメージダウンにより仕事が激減した。
2度目の逮捕は、仕事がなくなった池が、母親が経営するクラブを手伝っていた頃のことだという。
母親のクラブの常連客だった不動産会社社長に誘われて、行き先もわからないまま池が連れて行かれた出かけた先で賭博が行われていた。
池はそれをきっかけに、賭博で気晴らしをしていたといい、数カ月の間、連続で参加していたという。
この賭博の情報は警察に伝わっており、神奈川県警が踏み込み、逮捕される。
池の罰金は10万円だったと言われている。[出典1]
逮捕後、池は、
今度のことで私は完全にダメになってしまう。
日本には恥ずかしくて住めない。[出典1]
などと漏らしたという。
引退後、結婚
池玲子は芸能界を引退後、1985年に結婚。
結婚相手は元プロ野球選手で実業家ともいわれており、2人の子供をもうけたという。[出典2]