どんな人?
- 菅原文太は仙台出身の役者。戦争中は宮城県と岩手県の境にある父の実家に疎開し、農業を手伝っていた。
- 2014年11月に転移性肝がん由来の肝不全のため、入院していた病院で亡くなった。彼の死は中国でも報じられたとのこと。
- 劇団四季に第1期生として入団して様々な端役を務めた後、ファッションモデルとして活動。その後は新東宝などに所属し、高倉健と並ぶ映画スターとして活躍していた。
- 映画『仁義なき戦い』に出演。その後もヤクザ社会を舞台にした同シリーズで、血気盛んな男を熱演した。
- 映画『トラック野郎・御意見無用』では、気が短いが弱者を守る星桃次郎役を演じ、シリーズ化するほど映画がヒットした。
菅原文太の生い立ち
▼菅原文太
https://twitter.com/oricon/status/540962576004165633
菅原文太は1933年8月16日生まれで、宮城県仙台市出身である。[出典1]
仙台第一高校を卒業後、早稲田大学に進学。しかし、後に同大学を中退している。[出典2]
父は新聞記者・画家
菅原の父は宮城県の地方紙『河北新報』の記者を務めていたが、後に辞めて画家になったそうだ。ただ、画家として調子がよかった頃に戦争の混乱に巻き込まれ、うまくいかなかったらしい。[出典3][出典4]
▼菅原が亡くなると(後述)、河北新報も特集した
https://twitter.com/kahoku_shimpo/status/539321026983653376
疎開して農業を手伝っていた
小学校2年生から中学校を卒業するまで、菅原は宮城県と岩手県の境の村にある父の実家に疎開。
当時は戦争中だったため、そこではジャガイモやサツマイモを作っていたが、菅原はその手伝いをしていたそうだ。
そして農薬や化学肥料がなかったその頃のことを、彼は
いま考えてみれば、日本中が有機農業なんだよ。[出典4]
と振り返っていた。[出典4]
劇団四季に入団後、モデルを経験して役者へ
菅原文太は1954年、1期生として劇団四季に入団。同劇団の創立間もない当時、彼は端役(エキストラに近い役)で作品に出演していたようだ。
その後、1957年には日本初の男性専門モデルクラブ「ソサエティ・オブ・スタイル」を岡田眞澄らと共に設立。モデルとしての活動を始めた。[出典5]
そして1958年、喫茶店で新東宝の社員からスカウトされて同社に入社し、映画『白線秘密地帯』で銀幕デビューを果たした。[出典5]
新東宝→松竹→東映
新東宝に入社した菅原文太は、その180センチもの長身により新人二枚目スター「ハンサムタワーズ」の一員としてプッシュされた。[出典5]
しかし同社は1961年に倒産。菅原は「ハンサムタワーズ」の仲間と松竹に移籍した。ただ、移籍先の松竹ではホームドラマなど、女優が中心となる企画が多かった。そのため彼には脇役が当てられることが続き、俳優・安藤昇の助言を受けて1967年、「ハンサムタワーズ」の仲間と東映に移籍した。[出典5]
高倉健と並ぶ映画スターと称されることも
▼俳優・高倉健
「政治家になりたい。俳優より政治家になりたい。
— ZIPANGALAPAGOS (@invisible_jp) 2018年5月4日
負けず嫌いだから一所懸命やるよ」高倉 健(1931 - 2014)
(2012年、生まれ変われたら何になりたいかという質問に答えて)#ガラパゴス化こそ価値 #高倉健 #昭和 #日本 pic.twitter.com/EKhCrRMjbo
- 長身
- 男前なルックス
- 味わい深い声
の3つを兼ね備えた俳優・菅原文太は東映に移籍後、1969年の映画『関東テキヤ一家』などに出演。その後、1973年から始まった『仁義なき戦い』シリーズに出演すると、同シリーズは大ヒットを記録し、菅原は一躍東映の顔となった。[出典5]
そんな菅原文太は、高倉健と肩を並べる映画スターとも称されている。[出典5]
任侠映画の名作『仁義なき戦い』
▼『仁義なき戦い』
https://twitter.com/eigacom/status/540279744088928256
菅原文太がシリーズを通して主役を演じる映画『仁義なき戦い』シリーズ。[出典6]
シリーズ第1作であり、”広島ヤクザ戦争”を元に描いた映画『仁義なき戦い』が、1973年1月13日に公開。[出典6][出典7]