どんな人?
- 法華津寛は、東京都出身の馬術選手。12歳から乗馬を始め、23歳の時に障害馬術で東京五輪に初出場した。定年退職後の2003年には、馬術の技術向上のために単身でドイツに渡った。
- 北京五輪では44年ぶりの五輪出場に加え、大会最年長記録で参加し話題となった。4年後のロンドン五輪にも出場し、見事連続出場となった。
- 2016年のリオデジャネイロ五輪の出場を目指していたが、騎乗馬の体調不良により、その挑戦はあきらめることとなった。
選手活動
実業家の傍ら馬術選手として
中学1年生の林間学校で馬に触れて以来、60年以上馬と共に歩んできた法華津。
12歳から乗馬を始め、23歳の時に障害馬術で東京五輪に初出場。
実業家としても活躍していたため、それを機に一旦馬術から離れるつもりだった。
しかし中々辞めることは出来ず、会社勤めをしていた30年間も、出勤前に馬場に通い五輪出場を目指していたという。
定年退職後の2003年には、馬術の技術向上をさせ五輪再出場のために単身でドイツの古都アーヘンへ。現在も日本とドイツを行き来する生活を送っているが、帰国を考えたことは何度もあったと法華津は話す。
(帰国を考えたことは)何度もありますよ。
2004年のアテネ五輪を目指しての渡独だったので、技術が未熟で出場できなかった時点で、もうやめて帰ろうと思いました。
ただ、その後の試合で少しいい結果を残せたことがあって。
もうちょっとやってみようかな、と思いながら続けていた2006年に、ウィスパーと巡り会えたんです。
この出会いは、諦めずに続けていたからこその幸運でした
と語った。[出典1]
愛馬ウィスパーとともに
五輪連続出場
その名パートナー、ウィスパーとともに、法華津は2008年北京五輪では44年ぶりの五輪出場に加え、大会最年長記録で参加し話題となった。
2012年のロンドン五輪では、自らの記録を更新してウィスパーと見事連続出場。
ロンドン五輪を振り返り、
もう少し上位に行けるつもりでいたのですが、僕がつまらないミスをしてしまったのが残念でした。
でもウィスパーは北京よりもずっと落ち着いていて、本当に一生懸命やってくれた。
彼女は昨年、怪我をしてしまい一度ロンドン出場を諦めたんです。
奇跡的な回復であそこまでやってくれたのですから、それは素晴らしかったですね
と語った。[出典1]
馬の競技は「馬六分、人四分」
馬の競技というのは「馬六分、人四分」といわれるほど、馬の才能が大きいという。
そのため法華津が技術向上や体力維持に努めていても、レースの勝敗を決めるのは馬の方だ。
法華津は、
ウィスパーと出会っていなければ今回出場できたかどうか。
実際、二度も五輪に連れていってくれる馬なんて、世界中を探してもそうはいないと思います
とウィスパーの才能を称賛する。[出典1]
リオ五輪出場を断念
世界最高齢の75歳で2016年8月開催のリオデジャネイロ五輪出場を目指していた法華津は、挑戦を諦めることになったと報じられた。
理由は騎乗馬の体調不良。日本代表を決める選考会に出場することができなくなった。
法華津は2016年1月に日本オリンピック委員会への手続きを行い、4度目の五輪出場に意欲を見せていた。しかし最近になって騎乗馬が体調不良に。
日本馬術連盟は日本代表人馬4組を選ぶ選考会を行うが、同月23日までに一定の参加資格を得ることを求めていた。
法華津は騎乗馬が競技会に出場できず、この基準を満たすことができなくなった。
法華津は
残念ながらリオ五輪に挑戦する夢は諦めました。
今後については、まだ何も決まっていない。
まずは馬を元気にしてやることを優先したい
と話している。[出典2]