どんな人?
- 田端義夫は歌手、ギタリスト。1939年に「島の船唄」でデビュー。同曲はレコード販売会社組合の「ぐらも・くらぶ賞」を受賞した。代表作は大ヒットした「大利根月夜」や「島育ち」など。
- 2007年の90歳で、歌手生活70周年記念アルバムをテイチクより発売。同アルバムには田端の録りおろしメッセージも収録されている。
- 2013年4月25日、肺炎のため東京都内の病院で94歳で死去。4回の結婚をしたことでも知られている。
生い立ち
田端義夫は1919年1月1日に三重県松阪市で生まれる。
パン屋や鉄工所など、さまざまな職業を経験し、[出典1]
1938年、名古屋新愛知新聞主催アマチュアコンクールで優勝している。
2013年4月25日 肺炎のため逝去。享年94歳。[出典2]
芸能活動
1939年、日本ポリドールレコードより「島の船唄」でデビューを果たす。デビュー作は大ヒットとなり、ぐらも賞を受賞。同年「大利根月夜」もヒットし、衝撃的な台頭となった。[出典2]
1942年には自分でエレキギターを作り、舞台で使い始める。エレキギターは後に田端義夫のトレードマークとなる。
1949年に大阪劇場で初のワンマンショーを開催する。
翌年1950年には京都大映にて初めての主演映画である「月の出船」に出演する。
1954年、一生涯使用することとなるギターと出会う。[出典2]
バタヤンのトレードマークともなっていたボロボロの電気ギター。
それは60年近くも愛用し続け、バタヤンが相棒と呼んでいるものであった。
1954年8月、バタヤンはヤマハ銀座店でアメリカのナショナル製No.1124モデルのギターを購入した。そして長い時間をかけてそのギターは大幅に改造され、塗装が削れたりして”バタヤンギター”へと変貌していった。60年の時を経て、世界に1本しかないまさに伝説のギターとなったのである。[出典3]
一時期低迷期に陥るも、1962年にリリースした「島育ち」が大ヒット。[出典2]
翌年1963年には初の初めて『紅白歌合戦』(NHK)に出場。
さらに翌年1964年には大阪府民劇場奨励賞を受賞し、奄美大島名瀬市に「島育ち」の記念碑が建立された。[出典2]
1975年には第17回日本レコード大賞・特別賞を受賞。
1988年に第30回日本レコード大賞特別功労賞を受賞した。[出典2]
1991年に初めての自叙伝「オース!オース!オース!」がNHK出版より発刊される。
さらに、1997年には新自叙伝「これからだっせ、人生は!」が近代映画社より発刊された。[出典2]
2013年4月25日、肺炎のため逝去。享年94歳であった。[出典2]
田端義夫が収録した曲は合わせて1200曲に上る。
同年5月18日にドキュメンタリー映画『オース!バタヤン』が公開された。[出典2]