2016年6月17日更新
どんな人?
- 藤原喜明はサラリーマンや板前の仕事を経て、23歳の時、新日本プロレスに入門。デビュー戦は入門から10日後の「藤波辰巳戦」だった。華がなく、前座試合を続けていたが、アントニオ猪木のスパーリング・パートナーに抜擢され、海外遠征などにも帯同した。
- 1975年、第二回カール・ゴッチ杯で木村たかしを破り優勝。また、1984年2月3日の札幌中島体育センター大会では長州力を試合直前の花道で襲撃し“テロリスト”として注目を集めるなど知名度を上げた。
- プロレスラーとしての活動の傍ら、俳優として映画やVシネマへ出演している他、タレントとして『オールスター感謝祭』(TBS系)などに出演している。
芸能活動
選手歴
1972年に新日本プロレス入りし、同年11月12日に藤波辰巳との対戦でデビューする。神様と呼ばれたカール・ゴッチのもとで技術を学び、その卓越したテクニックから藤原は「関節技の鬼」との呼ばれるようになる。1976年にアントニオ猪木のスパーリングパートナーに抜擢される。[出典1]その後は前座時代が長く続くが、1984年2月に札幌で試合前の長州力を襲撃し再び注目を集め、「テロリスト」という異名も得る。同年に第1次UWF旗揚げに参加、団体が消滅した後は新日本復帰を経て、1991年にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げした。現在はフリーで活躍しており、俳優としても活動する。[出典2]
長州力を襲撃
1984年2月、藤原喜明は札幌で長州力と藤波辰巳の対戦前に、花道で長州力を襲撃し、血だるまにするという事件を起こす。
当時、長州か藤波のどちらかが怪我をしており試合ができない状態だったが、人気カードの試合であることやテレビ中継が入っていたことなどもあり、中止にはできない状況になっていた。
そんな折、藤原はアントニオ猪木に「乱入しろ」と言われ襲撃したという。[出典2]
この襲撃で藤原は「テロリスト」の異名を得て、入門後12年目ではあったが、メインイベンターとしての道を歩み始めるきっかけとなった。しかし、長州と藤原の怪我の情報はあくまで噂であって本当のところはわからないとも話している。
また藤原は、騒動後の藤波や長州との仲について、プロレスラーは一人一人が個人商店主であると前置きした上で、
好きでもないし、嫌いでもない。だから、会ったら「おぉ、久しぶり」という感じで、一緒に酒を飲む。好きかと言われれば好きじゃないし、嫌いかと言われればそうではない。好き嫌いじゃなくて、お得意様なんだよな。こういう関係はプロレスラーじゃないとわからないかも。前の日、一緒にお酒を飲んで、次の日リングで戦うのはおかしいんじゃないかと言われたりするけど、酒飲んでいるときはプライベートだし、リング上は仕事。それだけのこと。
と話している。[出典2]
弟子と対決
2012年7月22日のノア両国大会でモハメドヨネと初の師弟シングル対決を行い、弟子のヨネが勝利している。[出典3]対決は藤原組に所属する弟子のヨネが熱望して実現したもので、試合前に藤原は「私も63歳になって、先が短いということ。今、倒しておかないと、チャンスがないってこと」と述べ、ヨネは「脇固め、フジワラ・アームバーをモハメド・アームバーとして使ってやる」と意気込んでいた。[出典4]
私生活
趣味
趣味は陶芸や盆栽、イラスト、エッセー執筆など多岐にわたる。[出典2]
胃がんの宣告
2007年9月に右肘手術のため内視鏡検査を偶然受けたところ胃がんを宣告される。
主治医から事務所に電話があってな。“残念な結果がでました”と。ショックで座り込んじゃった。でも人間っていつか死ぬんだと。それが明日か何年先かの違いだけだと思ってね。ただ、ああいうとき人間はおかしなことを考えるね。手術をしたらしばらく飲めない。だから飲みに行きましたよ
手術で胃の半分を切除して抗がん剤治療を続けたところ、現在のところ再発はない。一度死を意識したことで生を身近に感じるようになったと話し、レスラー仲間の心遣いが嬉しかったと振り返っている。また、アントニオ猪木は藤原のがんのことを全く知らず、電話で元気かと聞いてきた。藤原がたまたま受けた検査で見つかったので「ラッキーでした」と言ったところ、「マッキ」と聞き違えるほど、猪木は心配してくれたという。[出典5]
性格
一人でいることが一番好きだと語っており、趣味も一人でできるものが多い。そのため他人に興味がなく、後輩が先にメインイベンターになっても気にしないとし、ファンに認めてもらおうと思ったことも一度もないとしている。一方で一番嫌いなことは「逃げた」と言われることである。
また自身のプロレス観について、
おれはプロレスラーに認めてもらえるプロレスラーになりたいと思ったんだよ。たとえば、自分がお医者さんだとして、素人さんから「あの先生、いい先生よね」と言われたいと思わない。たくさんいる医者から、「あの先生は腕がいい」と言われるような医者になりたいわけですよ。おれは、おれ。他人のことは、どうだっていいんだよ。
と語っている。[出典2]
交友関係
2016年6月3日モハメド・アリが死去した際は、「ご冥福をお祈りします」という一言を自身のブログに掲載した。[出典6]アリは藤原のトレーナーであったアントニオ猪木の対戦相手である。[出典1]
出典
-
『「GREAT VOYAGE 2012 in RYOGOKU」7月22日(日)両国国技館大会 試合後コメント』(株式会社プロレスリング・ノア公式サイト)
-
『前立腺がんと戦った藤原喜明 アントニオ猪木、前田日明からの心遣い がんに打ち克った5人の著名人(4)』(デイリー新潮)
1972年、対・藤波辰巳(当時)戦で新日本プロレスでデビュー。1984年UWFに参加後、1990年に「藤原組」を旗揚げ。サブミッションレスリングに傾倒、脇固めやアキレス腱固めを筆頭に予測不能のサブミッションを繰り広げ、「関節技の鬼」と呼ばれる。カナダで熊との対戦経験もあり、フリーランスとして各団体で活躍。藤原門下生はプロレス界に多数存在。また、「組長」の愛称で独自のキャラクターを確立し、プロレス以外に俳優業、ナレーター、声優などでも活躍。
出典:タレントデータバンク