2024年2月20日更新
どんな人?
- 赤木春恵は1940年松竹にニューフェースとして入社。同年に映画『二本松少年隊』で女優デビュー。1943年に大映へ移籍している。
- 橋田壽賀子脚本作品や石井ふく子プロデュース作品への出演が多い。主な作品は『おんな太閤記』(NHK)、『おんなは一生懸命』(TBS系)、『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)など。
- 2013年には森崎東監督の映画『ペコロスの母に会いに行く』で初主演を果たす。当時、88歳と175日であり、“世界最高齢での映画初主演女優”として、ギネス世界記録に認定された。
- 心不全のため、2018年11月29日に94歳で死去。
プロフィール
本名 | 小田章子 |
旧芸名 | 赤木春生 |
生年月日 | 1924年3月14日 |
没年月日 | 2018年11月29日(満94歳没) |
身長 / 血液型 | 152cm / B型 |
出身地 | 満州国新京特別市 |
デビュー年 | 1940年 |
所属事務所 | オフィスのいり |
生い立ち
家族
父親は満州鉄道の産婦人科医であったが、赤木が3歳のときに亡くなる。兄妹に9歳年上の兄、11歳年上の兄が2人いるが、満州で生まれたのは赤木だけで兄たちは日本生まれである。引き上げ後は大おじと大おばが住んでいた京都に住んだ。[出典1]
幼少期のエピソード
満州は自身にとって一種のふるさとと言い、地元の子どもと一緒にいろいろと遊んだとしている。料理に関しては今でも味付けは中国的なものが好きだと明かしている。[出典1]
芸能活動
芸歴
兄が松竹撮影所の助監督をしていたこともり、撮影所によく遊びに行っており、「女優やってみるかい?」と監督に言われたことが女優になったきっかけである。
当時は赤木は16歳で、周囲から嫁に行けと言われ続け、今の生活から抜け出す自由がほしく、その言葉にしがみついたと振り返っている。[出典1]
1940年松竹にニューフェースとして入社し、同年に映画『二本松少年隊』で女優デビューを果たす。1943年に大映へ移籍している。
主な作品は『おんな太閤記』(NHK)、『おんなは一生懸命』(TBS系)、『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)などがある。これまで出演した作品は映画だけで130本以上に及ぶ。[出典2]
83才の時に乳がんを患ったが手術を受け、克服している。[出典3]
舞台を引退
2011年6月13日、東京都で行われた明治座7・8月『コロッケ特別公演』制作発表会見に出席し、この公演をもって舞台を引退すると発表した。
赤木は「いつまで元気でいられるか推測できないので、このへんで舞台とお別れしたほうがいいと思った」と報告し、引退後にオファーを受けても「一度卒業を宣言した以上、もう一回はありません」と完全引退を宣言。
女優業は今後も続けていくとし、「自分の身の丈に合った仕事をしていきたい。これからは悠々自適に暮らしてみたいです」と真摯に答えた。
「気持ちは70代のままなんですが、気がついたら87歳。舞台の途中で倒れるなんて許せないこと。迷惑をかけるような生き様はみせたくない」と引退を決断。
座長を務めるコロッケから復帰の要望をかけられるも「大事にとっておいて思い出にします」と丁寧に断り「私は私の考えで決断した。女優としてはもう少し生きていきたい」と凛とした表情を見せた。[出典5]
ギネス認定
2013年公開の映画『ペコロスの母に会いに行く』では俳優人生73年にして初の主演を果たし、史上最年長主演女優としてギネスに認定された。[出典3]
私生活
家族
娘夫婦と孫が2人、犬を2匹飼っている。[出典1]孫の野杁俊希は俳優である。[出典6]
健康の秘訣
現在92歳の赤木であるが、健康の秘訣をストレスをためないことと明かし、「わたしはいまとっても幸せなんですよ。家族に囲まれて。ストレスはありません。愛がありますから」と語っている。[出典1]
高級なものが嫌い
高級なものが嫌いなんです。大好きなのは卵。卵は昔からごちそうでした。戦争中なんて卵を手に入れようとすると大変でしたもん。卵焼きが好き。
亡くなりました主人が「あんた不幸せだね」って言うんです。ウナギやキャビア、フォアグラが嫌いでしょ。お肉も高いようなお肉は食べないんですから。戦争中は食事ができませんでしたもんね。[出典1]
化粧を始める
5年ほど前から化粧を始めた。
赤木が「こんなにおばあさんになっちゃって、もう鏡を見るのがイヤだわ」と嘆き、娘に「舞台を引退して、自分に使える時間ができた今だからこそ、毎朝、お化粧をしてみたらどう」と言われたことがきっかけである。
化粧をすることで気分が明るくなると話す。[出典3]
左足大腿部を骨折
2015年9月に自宅で左足大腿部を骨折し、入院した。病院と自宅を行ったり来たりしてリハビリをし、高齢であることや体力を考慮し、手術はしなかったという。今後は声の仕事などから復帰を目指したいとしている。[出典4]