2023年9月7日更新
どんな人?
- 高橋ジョージはバンド「THE 虎舞竜」でボーカルを務めるミュージシャンであり、タレント。リーゼントが特徴。
- 三船敏郎の娘である三船美佳と”年の差婚”をしている。結婚当時、高橋ジョージは40歳、三船美佳は16歳という24歳差だった。
- 三船美佳の結婚以来おしどり夫婦のイメージが強かったが、2015年離婚係争中であることが明らかになる。三船美佳は「高橋ジョージのモラハラ」が原因だと話している。
▼高橋ジョージ(右)
芸能活動
プレスリーに憧れて歌手を志す
高橋ジョージは小学3年生の頃、同級生のリッキーと意気投合し、自分たちで作詞・作曲してバンド活動をスタート。
1976年には上京し、ロックンロールバンド「ジャスティン」に加入するも、上京したリッキーと共にバンドを結成する。
その後、安岡力也と「力也&クロコダイル」に参加。
1980年、憧れていたエルビス・プレスリーの曲にちなんだバンド名「THE TROUBLE」でデビュー。
しかし、ヒットに恵まれずバンドは解散となり、高橋ジョージはニューヨークへ拠点を移し、ライブ活動を始める。[出典1]
「ロード」が大ヒット
高橋ジョージがニューヨークから帰国後、再び「THE TROUBLE」で活動を再開。
1992年シングル『こっぱみじんのR&R/ロード/道化師』を自主出版すると、同年10月に有線チャートで『ロード』が大ヒットとなる。
1993年にはバンド名を「THE虎舞竜」に改名。
『ロード』をリニューアル発売すると、有線チャート全国1位となり累計220万枚のメガヒットを記録する。[出典1]
「ロード」は、数多くの賞を受賞している。
日本有線大賞の「有線音楽優秀賞」「全日本有線放送大賞」「特別賞」「審査委員会最優秀賞」
日本レコード大賞の「ヒットシングル賞」
第8回「日本ゴールドディスク大賞」「ベスト5シングル賞」[出典1]
2003年にはロード発売10周年記念盤のアルバム『ザ・ロード』をリリース、2005年にはリッキーがバンドへ戻り、再び「THE TROUBLE」時代の3枚のアルバムを発売した。[出典1]
「ロード」誕生秘話
『ロード』が実話から生まれた曲だという話は有名なエピソードの一つ。
高橋ジョージの女性ファンが手紙で、
“離婚経験がある子持ちの男性との間に新しい生命を授かったが、男性は「もう子どもはいらない」と言っていたため、打ち明けることができない”[出典2]
という内容の相談をしてきたという。
そこで高橋ジョージが間に立ち、男性は出産を認めて女性と結婚することになったが、女性は出産間際に交通事故に巻き込まれ、お腹の子供も一緒に亡くなってしまったという。
この出来事を元に高橋ジョージは作詞作曲を行い、
『何でもないようなことが幸せだったと思う』[出典2]
という歌詞やハーモニカとピアノだけのメロディーが生まれたという。[出典2]
ライブやバラエティー番組への出演
高橋ジョージは2011年に10年ぶりとなるアルバム『Tears☆2011』をリリース。
2015年には「たどころ晋也」(高橋ジョージ)としてマキシシングル『ハローマイラブ!ふたり〜OneDay』をリリースした。
この他、各地でのライブ活動やバラエティー番組への出演などを行っている。[出典3]
バラエティー番組出演のきっかけ
高橋は自身のバラエティー番組の出演は偶然であったと語る。
数年前に元妻である三船美佳が、自身の母親と共に旅番組に出演する予定だったが、母親が骨折をしてしまい急遽高橋が出演することになった。
高橋が出演した回の番組視聴率が良かったことがきっかけで、徐々にバラエティー番組に出演するようになった。[出典4]
今後の目標
高橋の今後の目標は以下の3つである。
1.ロンドンのアビー・ロード・スタジオでレコーディングすること
高橋にとってロンドンのアビー・ロード・スタジオは「俺にとって聖地」というほど、憧れの場所であり、是非そこでレコーディングがしたいと語る。
2.ホールでのコンサートをすること
高橋は武道館などの巨大な会場ではなく、ホールでのコンサートを行うのが夢である。
ホールの中でも特に”中野サンプラザ”でコンサートを行いたいと語る。
3.”紅白歌合戦”に出場すること
高橋は、紅白出場が一番難しい目標であると語るが、ファンのためにも是非成し遂げたいと明かしている。
できる、できないは置いておいても、そうやって誰かのためにがんばれるっていうのは大事だし、幸せなこと。人間は目標があれば進んでいけますからね。[出典4]
と語り、目標を持って生きることの大切さを熱弁した。[出典4]