2022年10月14日更新
「B-21 SPECIAL」の人気が沸騰していた1980年代後半は、ちょうどお笑いコンビ「ダウンタウン」や「ウッチャンナンチャン」なども活躍していた時代。[出典5]
しかし「B-21 SPECIAL」は、ヒロミが所属事務所から独立し社長に就任、事務所運営のためピンでの仕事も全て引き受けていたため、次第にトリオでの活動が減少し、活動休止に。
現在は個々で活躍しており、2015年8月にはバラエティー番組『ダウンタウンなう』(フジテレビ系)で11年ぶりに3人揃ってテレビに出演を果たした。[出典5]
ヒロミは2017年10月現在、芸能事務所「ビィーカンパニー」に所属する。[出典1]
ヒロミが「干された理由」
レギュラー番組が次々と終了
1990年代、週に10本のレギュラー番組で司会を務めていたヒロミ。[出典6]
しかし自身が40歳ぐらいのときから
“ヒロミのキャラは強いから、もうちょっとソフトに叩いたりとか、ちょっと大人になれない?”[出典7]
とキツイ芸風を周囲に注意されることが増え、
俺は自分の中で“俺はこのままでいきたい”[出典7]
と考えていたヒロミの番組は、2004年頃に次々と終了していった。[出典6]
親友・吉野さんの死
ヒロミのレギュラー番組が徐々に減っていた時、そんな彼を
それでいいんだよ[出典8]
と優しく支えていたのは、デビュー当時からヒロミの良き相談相手且つ放送作家の吉野晃章さんであった。
ヒロミは吉野さんのことを
自分を理解してくれる、頼れる親友[出典8]
と話しており、2人は共に番組を作っていたという。
しかし2003年に、ヒロミは吉野さんから「白血病を患っている」ことをカミングアウトされる。
ヒロミは毎日のようにお見舞いに訪れ、親友の回復を願ったが、惜しくも吉野さんは帰らぬ人となった。
そんな”親友の死”は、ヒロミにとってショックが大きすぎ、
死ぬほど泣いた。本当に泣いた[出典8]
いなくなった後は、気が抜けちゃったような…。これから誰とやるんだ? 全く考えられなく、自分でもどうしようもなかった[出典8]
と当時についてヒロミは振り返っている。
その後ヒロミのレギュラー番組は、全て終了。彼はテレビの世界から姿を消した。[出典8]
堺正章の言葉を受け、ジムを経営
人気者から一気に下落したヒロミは、当時辛い状況から逃げようと「アメリカ留学」を考えていたという。
その際、相談したほぼ全員がヒロミの”アメリカ行き”を賛成した中、堺正章だけが
ダメだよ逃げちゃ。今から大学行ってどうするの。絶対にダメ。日本にいなさい。逃げるな[出典6]
と本気で反対してくれた。[出典6]
堺正章の言葉を受けて「アメリカ留学」をとりやめたヒロミは、日本で加圧トレーニングジムを経営。
ジムの経営は成功を収め、ヒロミは年商3億円以上の実業家となった。[出典6][出典7]
なお、唯一自分を引き止めてくれた堺正章については、
あの時、堺さんが止めてくれなかったら今の俺はないし、とても感謝しています[出典6]
1986年1月21日(大安)にミスターちん、デビット伊東等と共に B-21SPECIAL を結成。デビュー当時、ルックスの良さに加え、機関銃の様にギャグが飛び出すスピード感、イヤミな位の若さを武器に人気を集めた。その後、個人としてレギュラー番組でのMCをはじめ、単発番組にも多数出演。特にスポーツ全般を得意とし、Super耐久レースにも参戦するなど、精神力、集中力を高める為色々な分野にチャレンジしている。
出典:タレントデータバンク