2024年2月5日更新
内田が頭角を現し始めたのは高校2年次のこと。ポジションを右サイドバックにコンバートした頃からであった。[出典5]
その後はメキメキと成長を遂げ、スカウトの目にも留まるほどの実力ある選手となった。[出典2]
鹿島アントラーズ時代の内田篤人
ルーキー時代の活躍
2006年、高校卒業後にはスカウトを受けた鹿島アントラーズに入団。同年から監督に就任したパウロ・アウトゥオリに好印象を残した内田篤人は、同ポジションの主力ベテラン選手からレギュラーの座を奪いとった。
その結果、クラブ史上初となる高卒ルーキー開幕戦先発出場を果たした。[出典1]
また最年少(17歳11ヵ月22日)でのプロ初得点記録をマーク。整った顔立ちであることからファンの心も掴んだ内田篤人は、オールスターにも出場し、DF部門最年少記録を樹立した。[出典5]
▼鹿島時代の内田篤人
背番号「2」は特別な番号
輝かしいデビューを飾ったルーキー内田篤人は、翌年に背番号を「2」に変更した。この番号は前年まで鹿島アントラーズでプレイしていた名良橋晃が身につけていたもので、彼がベルマーレ平塚に移籍すると共に、内田が番号を後継。
名選手の背番号を身につけた内田のプレーはさらに磨きがかかり、この年のリーグ優勝に大きく貢献した。[出典5]
この頃から内田にとって「2」という番号は特別な数字となり、シャルケに在籍した7年間は背番号「22」、17年度から移籍したドイツのFCウニオン・ベルリンでは「2」の数字を背中に背負っている。[出典1][出典6]
クラブ史上初のV3に貢献
入団3年目となる2008年には、Jリーグベストイレブンに選抜され、また鹿島アントラーズは2年連続の優勝を果たした。
翌年、再びベストイレブンメンバーとなった内田篤人は、チームをクラブ史上初のV3に導き、その活躍ぶりに海外のクラブチームも目を向けるようになった。[出典1]
シャルケ時代の内田篤人
初アシスト〜長友との直接対決
2010年7月、内田篤人は鹿島アントラーズからドイツ・ブンデスリーガのシャルケに契約年数3年で完全移籍、翌月の試合で途中出場しブンデスリーガデビューを果たした。10月には欧州CL1次リーグのリオン戦で初アシストを決めた。
2011年4月には、欧州CL準々決勝でインテル・ミラノと対戦。相手チームに所属していた長友佑都と初となる日本人対決となった。[出典1]
▼長友佑都
言葉の壁に悩んだ内田篤人
当初は海外への移籍など全く考えていなかったという内田篤人だが、様々な出会いを経て海外へ出ることを決めたという。
しかし、いざ移籍先のドイツへ渡ると、言葉の壁を痛感。名選手たちとプレーする中で通訳もつけなっかったため、「もうやるしかない」と腹をくくったことを明かしている。なお、移籍時の内田篤人の英語力は中学生クラスであったとのこと。[出典3]
▼シャルケのメンバー