2021年2月12日更新
どんな人?
堂本光一の生い立ち
堂本光一は1979年1月1日生まれ、兵庫県出身。
現在の年齢は43歳。[出典1]
姉が履歴書を送りジャニーズに
堂本光一は自身の姉がジャニーズ事務所に履歴書を送ったところ、直接ジャニー喜多川社長から電話があったという。
そして1991年に光一は事務所入所することになる。
入所当時、関西在住だった光一は土日だけレッスンのために堂本剛と待ち合わせして上京していたという。
1992年には堂本剛とともに「KANZAI BOYA」を結成し、光GENJIやSMAPなどのバックダンサーを務めていた。[出典2]
幻のユニット「ジパング」とは?
「KANZAI BOYA」結成当時、まだTOKIOに入っていなかった長瀬智也は光一と剛、井ノ原快彦と行動をともにしていた。
そのためファンの間では4人で新ユニット「ジパング」を結成するという噂まで流れていたそうだ。[出典2]
中学時代の写真撮影でトラウマ?
写真を撮られたら「命を取られると思ってます」と言うほど撮影が嫌いだと言う堂本光一。
その理由は、中学時代に光一がジャニーズJr.として活動し始めた頃のアイドル雑誌撮影にあるという。
「関西人が東京で大はしゃぎ」[出典3]
という編集部の狙いで、光一と剛は都庁で水を入れた子ども用ビニールプールに入って、海パン一丁で撮影した。
大勢の歩行者が通る中で行ったこの撮影は、中学生で多感な時期だった光一にとってはとんでもなく恥ずかしく、忘れられないトラウマになったという。[出典3]
KinKi Kidsとしての活動
1997年にCDデビュー!
1993年に「KANZAI BOYA」から「KinKi Kids」に改名。[出典2]
中居正広司会のバラエティ番組『キスした?SMAP』(テレビ朝日系)第1回放送で、正式に「KinKi Kids」というグループ名が発表された。[出典4]
1997年にシングル『硝子の少年』でKinKi Kidsはデビューを飾った。[出典5]
シングル連続初登場1位でギネス世界記録に
デビューシングル『硝子の少年』は初週で31.5万枚を売上げ、累計で178.6万枚と1曲目から大ヒットを記録。
それ以降も『愛されるより愛したい』、『全部抱きしめて/青の時代』など37曲全てのシングルでオリコン1位を記録している。[出典5]
そして2017年7月12日にリリースされた38枚目のシングル『The Red Light』でも初週20万枚を売り上げ、オリコン週間シングルランキングで初登場首位を獲得。[出典5][出典6]
「デビューからのシングル首位連続作品数記録」のギネス記録を38作連続へ伸ばしている。(2017年7月現在)[出典6]
2017年にデビュー20周年!
2017年7月21日でCDデビュー20周年を迎えたKinKi Kids。
それを記念してベストアルバム『The BEST』が2017年12月12日にリリースし、オリコン週間アルバムランキングでは1位に初登場した。
KinKi Kidsは本作でアルバム通算1位獲得作品数が13作連続19作目を記録。
アルバム通算1位獲得数部門では、1位のB’z(28作)、2位の松任谷由実(23作)、3位の浜崎あゆみ(20作)と続く歴代単独4位となった。(2017年12月現在)[出典7]
▼浜崎あゆみに続く4位!
堂本光一主演ミュージカル『SHOCK』
堂本光一は自身が座長を務めるミュージカル『SHOCK』シリーズを2000年にスタート。[出典8]
同舞台はジャニー喜多川が作・構成・演出を務め、ニューヨーク・ブロードウェイを舞台にしたエンターテインメント作品となっている。[出典9]
『MILLENNIUM SHOCK』として初演以降、2013年に公演回数1000回、2016年には1400回を達成。[出典8]
2005年からは『Endless SHOCK』となり、2017年では東京都・帝国劇場、大阪府・梅田芸術劇場、福岡県・博多座で上演された。[出典8][出典9]
過去には事故も
2015年3月19日に東京・帝国劇場で上演された『Endless SHOCK』の昼公演中に事故が発生。
舞台上で800キロの大型LEDパネルが倒れ、出演者らの男性6人が下敷きになるなどして負傷した。[出典10]
事故の翌日となる20日の夜公演からは再開しており、全シーンの安全面と演出面を見直したという。[出典11]
通算上演回数1500回を達成!
2017年3月31日に東京・帝国劇場で『Endless SHOCK』の千秋楽公演が行われ、通算上演回数1500回を達成。
2014年に堂本がミュージカル単独主演記録1位を樹立しており、記録をさらに更新した。[出典9]
堂本光一は公演後に行われた特別カーテンコールにて、
続けるほどに大きくなるプレッシャーに負けないよう、みなさんに恩返しできるよう、やれる限りは続けていきたい[出典9]
と新たな決意を語った。[出典9]