2021年9月17日更新
どんな人?
- 生駒里奈(いこまりな)は、日本で活動するタレント。秋田県由利本荘市出身の1995年12月29日生まれ。乃木坂46合同会社所属。
- 父の勧めでアイドルグループ「乃木坂46」の1期生オーディションを受け、2011年8月21日に合格。
- 2012年2月22日発売の「乃木坂46」1stシングル『ぐるぐるカーテン』でCDデビューし、センターポジションを務めた。以降、5thシングルまで連続してセンターを務めている。
- 2018年5月6日に開催された「20thシングル発売記念全国握手会」をもってグループを卒業。
- アニメや漫画、「仮面ライダー」シリーズなどが好き。
▼生駒里奈
生駒里奈の生い立ち
生駒里奈は1995年12月29日に、秋田県で生まれた乃木坂46のメンバー。[出典1]
高校1年生の夏休みに乃木坂46のオーディションを受け、合格。[出典2]
乃木坂46初代センターとしてグループを牽引し、自身もバラエティ番組や舞台をこなしている。[出典3]
幼少時代の生駒里奈は…
そんな生駒里奈の幼少時代は、好き嫌いの激しい子供だったそう。
勉強が嫌いだった生駒里奈は、ダンスが大好きな少女だった。赤ちゃんの頃から踊っていたと語る彼女は小学校3年生の時から習っている。[出典2][出典4]
ダンススクールでの日々
大好きなダンスを踊る日々で、生駒里奈は様々な踊りに挑戦していた。例えば、ヒップホップ、あるいは洋楽などのポップミュージックに合わせたダンスなど。[出典4]
それらの経験はアイドルになってから活かされているようで、
いろんな表情で踊ることができた[出典4]
と、生駒里奈は語っている。[出典4]
シカトされた日々
そんなダンスが好きな活発な女の子の日常は小学校5年生の時に壊れてしまう。[出典5]
生駒里奈はクラスメイトからシカトされるようになったのだ。彼女が語るには朝学校に行くとロッカーの中身が床に散らばっていたそうで、
学校に一切荷物を置かなくなって、毎日終業式ぐらいの荷物を持って通っていました[出典5]
と、辛い日々のことを語っている。[出典5]
それでも生駒里奈は、学校に通い続けたとのこと。[出典5]
不登校になるのは簡単だったんですけど、お母さんとかを悲しい気持ちにさせるのはヤダなって思ったんです。[出典5]
生駒は友達のいない学校生活を図書館で過ごしていたそう。[出典5]
転機が訪れたのは…
そんなイジメを受けていた生駒里奈が中学に進学。そこで人生を変える出会いがあった。[出典5]
中学校に上がって、今でも大好きな大親友ができたんですよ。そこでわたしは救われたなと思います。[出典5]
吹奏楽部に入った中学時代
親友との出会いがあった中学時代、生駒里奈は吹奏楽部に所属。管楽器などを体験したが、選んだのはパーカッションだった。[出典5]
リズム感がつきましたね。裏打ちをするんですね。だから私、ライブとかで「-ハイ、-ハイ」っていう裏のテンポが絶対にブレないんですよ[出典5]
再びイジメの標的に…
充実した中学生時代を過ごしていた生駒里奈だが、高校に進学すると再びイジメの標的になってしまう。[出典6]
そんな現状に嫌気が差した生駒里奈は逃げ出したいと思ったそうだ。[出典6]
父親の提案
高校一年生の夏休み、生駒里奈の父親が乃木坂46のオーディション話を持ってきた。当時の生駒里奈の心境は、
(高校での)3年間ムダにするなあ、って思っていた[出典6]
そうで、どうせなら毎日踊れるアイドルの方が良いなと思ったそうである。
ちなみに、父親は芸事が好きではないそうだが、なぜかそのオーディション話を勧めてきた。[出典6]
最終選考でアピールしたのは…
このようにして、生駒里奈は乃木坂46のオーディションを受けることになった。
彼女はあれよあれよと審査をクリアしていき、最終審査にたどり着いた。[出典7]
4次審査の時点で落ちるだろうと思っていた生駒里奈は通過してしまって、
あれ、お母さん、最終審査まで進んじゃったよ! どうしよう?[出典7]
と、困惑したと語っている。
そして、運命の最終審査。生駒里奈は地元が同じ、加藤夏希や渡部秀に続く3番目に有名な芸能人になりたいとアピールしたそうだ。[出典7]
最終審査からの帰り道は寝台列車で
無事最終審査を終えた帰路は、寝台列車だったと生駒里奈は明かしている。[出典8]
寝台だったら寝て帰れるし“良かったね~”とお母さんと帰ったな~[出典8]
変わってしまった人々と決意
オーディションに合格した生駒里奈を待っていたのは、それまでと態度が変わった地元の人々だった。
親友はそれまでと同じように接してくれたけど、ほかの人たちは急に接し方が変わってしまったんです[出典8]