どんな人?
- 藤山寛美は1951年舞台『桂春団治』に出演し、アホ役・藤山寛美として人気を獲得。「新喜劇のプリンス」と呼ばれて親しまれた。
- 1959年、舞台『親バカ子バカ』(読売テレビ系)のテレビ放送開始され、視聴率は最高視聴率58%を記録。『藤山寛美』の名前は全国区となった。
- 1990年5月21日に60歳で死去するまで、「244カ月連続無休公演」や「ブロードウェイで連続公演回数の新記録」など数々の大記録打ち立てた。
芸能活動
『桂春団治』で喜劇役者に
1951年の舞台『桂春団治』が喜劇役者としての立ち位置を決定づける。藤山は酒屋の丁稚役で、台本に書かれていた台詞は「ツケを払うとくなはれ!」のたったの一行であった。
しかし、藤山は本番の舞台ではアドリブで主役とやりとりを続け、丁稚のとぼけた会話が観客の笑いのツボを捉える。公演後にアホ役というハマリ役を得た藤山は、大阪だけでなく東京でもフジヤマ旋風と呼ばれるほど大人気を博し、ついには新喜劇のプリンスと呼ばれるようになった。[出典1]
『親バカ子バカ』のヒット
1959年に藤山の集大成ともいえる舞台『親バカ子バカ』のテレビ放送(日本テレビ系)が始まり、最高視聴率は58%を記録した。この作品を機に藤山の名は全国的に知られることとなり、松竹新喜劇の道頓堀の中座は連日満員御礼となる。
また『親バカ子バカ』の大ヒットによって、寛美の給料も80万円にまで跳ね上がる。当時の大学卒の初任給が2万円という時代であり、現在の価値に換算すると月給1000万円以上を手にしたとされる。[出典1]
豪遊と借金苦
夜な夜な豪遊を続けて、給料をほとんど家庭に入れなかったため家計は火の車であった。
当時5人の幼子がいたにもかかわらず、 藤山が豪遊を続けた理由は母の教えにある。
役者は遊んでないと舞台で華が出ない
そのため藤山は貧しかった大部屋時代から豪快に金を使い芸者遊びをしていた。しかし借金を積み重ね、客席やロビーにもヤクザがたむろするようになると客が寄り付かなくなり、1965年に松竹新喜劇は藤山をクビにする。[出典1]
復帰公演
藤山がいなくなり、松竹新喜劇は客足が遠のいた。藤山は東映の映画に出演するなどして活動を続けていたが、舞台に立てない現実に苦悶する日々を送っていたという。結局松竹は藤山の借金を肩代わりすることで舞台に呼び戻すことを決定を下す。[出典1]
さまざまな記録
復帰から20年経った1987年(昭和62)2月、寛美は世界の演劇史上例を見ない、244カ月連続無休公演という大記録を打ち立てる。2年後の1989年にはその功績が称えられ紫綬褒章を受賞した。またブロードウェイで連続公演回数の新記録も残す。[出典1]
芸への思い
藤山は
芸は水に文字を書くようなもの。書き続けないと見えない
とよく言っていたという。[出典1]
肝硬変で亡くなる
1990年5月21日に肝硬変により60歳で亡くなった。[出典1]
妻の峰子は
亡くなる1時間前までは、ウロウロ歩いてたんです。で、最後に『ええ本が欲しい…』『芝居がしたい』と言うてね。それが本当に最後の言葉なんです
と最後の最後まで役者であったと振り返っている。[出典1]
私生活
家族
妻の峰子は大部屋時代の芸者遊びの際に出会った芸者であった。[出典1]
娘には上海国際映画祭で日本人初の最優秀女優賞した藤山直美がいるほか、[出典2]俳優の藤山扇治郎は孫である。2013年に扇治郎は祖父寛美が所属していた松竹新喜劇に入団、丁稚役を演じた。[出典3]