どんな人?
- 錦織圭(にしこりけい)は、プロテニスプレーヤー。島根県松江市出身。1989年12月29日生まれ。
- 父と、4つ年上の姉と共に5歳の頃テニスを始めた。その後スクールへ通い始め、小学4年生で全国小学生テニス選手権大会に中国地方代表として出場。
- 2007年にプロへ転向。マイアミ・マスターズのダブルスに主催者推薦でツアー初出場を果たした。
- 2009年に右肘の疲労骨折が発覚し2010年の年初まで大会を欠場。復帰後は順調に勝ち星を上げ、2012年には日本人男子歴代最高ランクを獲得。
- 世界ランキング自己最高位は4位であり、アジア男子歴代最高記録。
▼錦織圭
生い立ち
錦織圭は、島根県松江市出身。1989年12月29日生まれ。現在33歳。
身長178cm。体重70kg。日清食品所属。2019年8月現在世界ランキング7位。[出典1][出典2]
土木事業に携わる技術者の父、主婦の母、4歳年上の姉が居る。
両親の趣味はテニスであり、姉も高校時代までテニス選手として活躍しており、全国大会に出場していた。[出典3]
テニスを始めたきっかけ
錦織圭は、父が社員旅行先のハワイで買ってきた子供用のテニスラケットをきっかけに5歳の頃テニスを始める。
この頃姉は既にテニスを始めており、錦織も姉と同じ松江市にある「グリーンテニススクール」に通い始めた。
当時錦織を指導していたスクールのコーチは、最初は母の陰に隠れるようなシャイな子供だったと語るが、
いざボールを打つとすごく光るものを持っていた。身体は小さいけど、ボールコントロールが抜群にうまく、どんなボールでも当てて返してくる。[出典3]
と、その才能を感じており、島根からプロ選手が生まれるのではないかと思ったそう。
更に、現在では錦織の代名詞となった「エアケイ」などの独特な打法は昔から取り入れており、型に嵌らず遊び心を忘れないプレイスタイルだったそう。[出典3]
才能と運が運んで来たプロへの足がかり
錦織圭は、小学6年生の時に出場した「全国小学生テニス選手権大会」で優勝。これを機にテニス関係者の目に留まり、松岡修造が開催するテニスの強化合宿に参加。
この頃から、錦織は本気でプロになりたいと思い始めたそうで、日本テニス協会名誉会長の盛田正明が設立した「盛田テニスファンド」に練習生として招かれるようになる。
その後2003年、当時13歳だった錦織に「盛田ファンド」の奨学金制度でアメリカのフロリダ州にあるプロスポーツ選手養成所へテニス留学するチャンスがやってくる。
錦織の「プロになりたい」という気持ちを尊重した両親は、まだ中学生だった錦織をフロリダへ送り出し、晴れて留学する事となった。[出典3]
後に拠点となるフロリダの地
留学期間は2年。途中で帰ってしまう選手も居る中で、錦織圭は音を上げず最終的に留学期間の延長までされている。
シャイな性格の錦織を、盛田元会長は心配していたというが、
英語がわからなかったのは辛かったし、ホームシックにもなったけど、日本にいるみたいにプレッシャーを感じないのは良かった。[出典4]
と後に錦織は語っている。[出典4]
その後着々と力を伸ばして行った錦織は、17歳になった2007年にプロへ転向。[出典3]
プロ転向後の快進撃
錦織圭がその名をテニス界のみならず日本中に知られるきっかけとなったのが2008年2月開催の「デルレービーチ国際大会」。
当時世界ランク244位だった錦織は、同大会で予選から勝ち上がり優勝。日本男子としては1992年の松岡修造に次ぐ2人目のツアー優勝となった。
同時期はオリンピックイヤーという事もあり、彗星の如く現れた錦織は日本の新聞やスポーツニュース、ワイドショーでも朝から晩まで取り上げられ、大フィーバーとなった。[出典4]
肘の故障、その後の活躍
2009年3月、錦織圭は肘の炎症と診断され約1ヵ月安静に過ごし、復帰する予定だった。
だが、コートでの練習を再開した4月下旬、肘に水が溜まり再度検査したところ疲労骨折が発覚。
当時19歳だった錦織は一気に世界レベルまで駆け上がった事で技術と才能に身体についかず、肩の筋肉が弱い為肘に負担がかかっていたという。
疲労骨折が発覚し、記者会見を開いた際には復帰の目途が立っておらず、錦織のトレーナーは5年後を目標に身体作りをしていると語っている。[出典5]
翌年2010年に復帰を果たすが、56位まで上げた世界ランクは完全消失してのスタートとなった。
しかし復帰後はブランクを取り戻す勢いの活躍を見せ、2010年の終わりにはトップ100入り。
2011年のシーズン終盤にはトップ10レベルの選手相手に勝利を収め、目標としていた松岡修造の持つ日本男子最高記録である46位を突破。
更にシーズン末には世界ランク日本男子最高記録である24位を獲得している。[出典4]