と後に錦織は語っている。[出典4]
その後着々と力を伸ばして行った錦織は、17歳になった2007年にプロへ転向。[出典3]
プロ転向後の快進撃
錦織圭がその名をテニス界のみならず日本中に知られるきっかけとなったのが2008年2月開催の「デルレービーチ国際大会」。
当時世界ランク244位だった錦織は、同大会で予選から勝ち上がり優勝。日本男子としては1992年の松岡修造に次ぐ2人目のツアー優勝となった。
同時期はオリンピックイヤーという事もあり、彗星の如く現れた錦織は日本の新聞やスポーツニュース、ワイドショーでも朝から晩まで取り上げられ、大フィーバーとなった。[出典4]
肘の故障、その後の活躍
2009年3月、錦織圭は肘の炎症と診断され約1ヵ月安静に過ごし、復帰する予定だった。
だが、コートでの練習を再開した4月下旬、肘に水が溜まり再度検査したところ疲労骨折が発覚。
当時19歳だった錦織は一気に世界レベルまで駆け上がった事で技術と才能に身体についかず、肩の筋肉が弱い為肘に負担がかかっていたという。
疲労骨折が発覚し、記者会見を開いた際には復帰の目途が立っておらず、錦織のトレーナーは5年後を目標に身体作りをしていると語っている。[出典5]
翌年2010年に復帰を果たすが、56位まで上げた世界ランクは完全消失してのスタートとなった。
しかし復帰後はブランクを取り戻す勢いの活躍を見せ、2010年の終わりにはトップ100入り。
2011年のシーズン終盤にはトップ10レベルの選手相手に勝利を収め、目標としていた松岡修造の持つ日本男子最高記録である46位を突破。
更にシーズン末には世界ランク日本男子最高記録である24位を獲得している。[出典4]
立ちはだかった大きな壁
輝かしい記録を収めた錦織圭だったが、世界ランク上位の選手を倒すには大きな壁があった。その壁を打破するきっかけを作ったのが錦織の母だったそう。[出典3]
身体の小さい錦織は、更に自分より身体が小さいにも関わらず世界ランク2位に上り詰めたマイケル・チャンにコーチをお願いしたいと思っていたが、中々機会がなかったそう。
そんな時、試合会場でチャンの妻を見かけた錦織の母が彼女に声をかけ、連絡先を交換した事がきっかけとなり、チャンは2013年から錦織のコーチをする事となった。
チャンがコーチになってから錦織に起こった一番の変化は精神面だったそう。
世界ランク上位の選手をリスペクトしすぎるあまり、試合で対峙した際「敵」と見なせなかった錦織に対し、その考えを変えるようチャンは言い続けたという。
Believe, you can do it(信じろ、お前ならできる)[出典3]
と錦織に言い聞かせ続けたチャンのお陰で、1つ殻を破る事ができたという。[出典3]