2021年9月9日更新
どんな人?
- 沢田研二は、1967年にザ・タイガースのメンバーとしてデビューしたアーティスト。
- 愛称は「ジュリー」。由来は、彼がイギリスの女優・ジュリー・アンドリュースのファンであること。
- ザ・タイガース解散後、沢田研二はソロ活動を開始。「勝手にしやがれ」などの名曲を生み出した。
- 毎年「正月ライブ」、「音楽劇」、「全国ツアー」を開催することが慣例となっている。
- 1989年に田中裕子と結婚。結婚から30年近く経った2017年現在も、夫婦仲睦まじいようだ。
沢田研二の生い立ち
沢田研二は1948年6月25日生まれで、現在76歳。鳥取県生まれの京都府育ちである。[出典1][出典2]
沢田さんちの次男坊
電車通りから3軒目の沢田さんちの次男坊[出典3]
ということが根っこにあるという、次男な沢田研二。「何かに執着しすぎず、冷静に生きよう」という思いがあるそうだ。[出典3]
スポーツ少年だった
沢田研二は子供の頃、スポーツ少年だったようだ。そして当時、「プロ野球選手になりたい」と言いながらも、実は歌手・俳優になりたかったという。[出典3]
しかし、彼の父もかつて俳優を目指し、後に諦めた人物。そんな姿を見て
自分もどうせなれっこない、と思い込んでいました[出典3]
と振り返っている。[出典3]
ダンス喫茶に行き始めた高校時代
スポーツ少年だった沢田研二だが、後に野球に挫折し、学校もつまらなくなったという。そして高校1年生のときに友人に誘われ、「不良の溜まり場」とされる京都のダンス喫茶に行き始めた。[出典3]
そこで
1曲覚えてきたら歌わしたる[出典3]
と言われると、沢田は一生懸命に歌を覚え、歌った。このときの快感が忘れられず、当時は将来を不安に思いながらも
バンマス(バンドマスター)の付き人をやりながら歌っていました[出典3]
という。[出典3]
17歳のときにバンドに加入
将来に不安を抱えながらも、歌手を目指し始めた沢田研二。そんな彼は17歳のとき、タイガースの前身・ファニーズから声をかけられ
どうせ売れやしないよ[出典3]
というバンドマスターの反対を押し切って加入した。[出典3]
▼後に「ザ・タイガース」となった
https://twitter.com/kinejun_theater/status/926250074858033152
ビートルズを見に東京へ
1966年にザ・ビートルズが来日し、東京・日本武道館でコンサートを開催した。沢田研二は当時のファニーズのファンから
絶対見た方がいいよ[出典4]
とコンサートのチケットを渡され、コンサートに足を運んだそうだ。[出典4]
▼1966年に来日したザ・ビートルズ
https://twitter.com/thebeatles/status/593745504799956992
コンサートでは、沢田の近くの席の女性たちの歓声が大きく、音が聞こえなかったという。当時を振り返り、沢田は