2021年11月23日更新
出典:タレントデータバンク
どんな人?
- 田中泯(たなかみん)は、日本のダンサー。東京都出身の1945年3月10日生まれ。
- 高校卒業後からクラシック・バレエとモダンダンスを学んだ。
- 大学を中退後は、伝統的なダンスと前衛的な表現の融合を求めてソロでダンス活動を開始。1978年には海外デビューも果たしている。
- 国内外での活躍が評価され、様々な賞を受賞。ジャンルに囚われない活動を行い、学者などにも影響を与えている。
- 2002年公開の映画『たそがれ清兵衛』出演以降、映画やドラマなどにも多く出演している。
▼田中泯
生い立ち
田中泯は、東京都中野区出身の1945年3月10日生まれ。現在年齢は79歳。身長171cm。[出典1][出典26]
学生時代はバスケットボールで国体レベルの選手
田中泯は終戦間近に生まれたため、生後数週間のころに出身地である東京都中野区から、警察官だった父の実家がある八王子市に疎開する。
幼少期は体が小さく病弱でいじめられっ子で、心配した母の勧めで中学からバスケットボールを始めた。[出典2][出典26]
その後東京教育大学に入学してからもバスケットボールを続け、国体レベルの選手になるまで上達している。
しかしアスリート同士による競い合いに嫌気が差し、バスケットボールを辞めてしまったという。
その後は、幼少期に盆踊りを踊って以降踊ることが好きだったため、クラシックバレエを習い始めている。
また、在学していた東京教育大学はのちに中退している。[出典2][出典3]
芸能活動
舞踊家・ダンサーとして国内外で活躍
田中泯は、1964年からモダンダンスやクラッシックバレエを10年間学びながらダンサーとしての活動を始めた。
1966年からソロダンスでの公演を開始。
1974年には日本現代舞踊協会から退会し、田中泯独自の“ハイパーダンス”と称されるダンススタイルを展開していく。
その後、1978年にはフランス・パリのルーブル装飾美術館で行われた展覧会「日本の時空間―間―」に参加し、海外デビュー。[出典4]
1981年からは、多国籍のメンバーで結成した舞踊グループ「舞塾」を率いて、各地で公演を行なう。
1996年には世界のあらゆる芸能を採集して記録する「舞踊資源研究所」を起ち上げ、芸能業界におけるネットワーク作りを推進。
2000年からは「桃花村舞踊団」を旗揚げし、国内外において活動の場を広げている。
また同年に「フランス政府シュヴァリエ勲章」を受賞して以降、「舞踊批評家協会賞」、「サントリー地域文化賞」、「日本現代藝術振興賞」など、舞踏界において数々の賞を獲得している。[出典3]
いぶし銀な俳優として演技面でも高評価
田中泯は、2002年に山田洋二が監督を務めた映画『たそがれ清兵衛』で俳優デビューを果たす。
同作では、真田広之扮する井口清兵衛の敵であり、一刀流の剣客・余吾役を演じた。
また、本作で「第26回日本アカデミー賞」最優秀助演男優賞と新人俳優賞を受賞している。[出典5][出典6]
その後も、2004年に公開の映画『隠し剣 鬼の爪』や、20011年の映画『八日目の蝉』、2013年公開の『永遠の0(映画)』など多くの映画作品に出演した。[出典7][出典8]
2014年には、佐藤健主演の映画『るろうに剣心 京都大火編』、『るろうに剣心 伝説の最期編』に出演。[出典14][出典15]
同作では、御庭番衆で最恐と恐れられた翁・柏崎念至役を演じ、圧巻のアクションを披露している。[出典9]
以降も、2018年に公開された映画『羊の木』や、同年に公開の映画『人魚の眠る家』などの人気作品に立て続けに出演している。[出典10][出典11]
クラシック・バレエとモダンダンスを学び、66年からソロダンスの活動を開始。70年代「ハイパーダンス」と称して独自のスタイルを追求、78年パリ秋の芸術祭「日本の時空間『間』展覧会」ルーブル美術館で海外デビューを果たす。85年山村へ移り住み農業を礎とした舞踊活動を現在も継続中。97年伝統・民俗芸能に焦点をあてた「舞踊資源研究所」設立。国内外問わず大舞台から野外までの幅広いダンス歴は現在までに3000回を超える。他、オペラ振付・出演多数。02年より多数の映像作品にも出演している。エッセイ集『僕はずっと裸だった』(工作舎)、田中泯+松岡正剛 著『意身伝心』(春秋社)。
出典:タレントデータバンク