2022年2月4日更新
出典:タレントデータバンク
どんな人?
- 西田ひかるは1988年にレコード『フィフティーン』をリリースし、芸能界デビューを果たしたタレント、女優、歌手である。
- アメリカに住んでいたことから、英語が堪能なバイリンガルとして知られる。
- 2002年に貿易会社勤務の一般男性と結婚し、後に長男・次男を出産した。
生い立ち
バイリンガルの帰国子女である
1972年8月16日、神奈川県藤沢市に生まれた西田ひかる。[出典1][出典2]
1973〜1985年までアメリカ・ロサンゼルスで暮らしており、バイリンガルとして知られている。[出典3]
私は藤沢生まれで、小さい時にはおばあちゃんの家で鶏を飼っていたりしていました。
田園風景の川の側を歩いた事を思い出しますね。[出典2]
カルチャーギャップに戸惑う
父親の仕事の関係で、生まれてからすぐ渡米した西田ひかる。
帰国後は、日本の梅雨や満員電車、狭いうえに恐ろしく天井が低い家に戸惑ったそう。[出典7]
こうした経験を活かし、2010年には藤沢市教育文化センターにて講演会「私の異文化体験~外から見た日本~」を開いている。[出典5]
芸能活動
高校在学中にデビュー
西田ひかるはロサンゼルスからの帰国後、1988年(高校在学中・14歳の頃)に「日本エアシステム」のキャンペーンガールとしてデビュー。[出典1][出典3][出典4][出典6]
当時はまだ男の子と間違えられることもあるそんな時代。
日本に帰国して間もなく、アメリカに戻りたくてホームシックにもなった時期。
でもキャンペーンの撮影は海で焼いて、海で撮影──こんな夢のような仕事があるのかと(笑)、本当に楽しかったです。[出典6]
さらにはレコード『フィフティーン』をリリースし歌手活動をスタートさせると、同時にミュージカル『小公子セディ』にセディ役で主演し、テレビアニメ版のテーマソングを担当した。[出典1][出典3][出典4][出典6]
主なヒット曲
西田ひかるがリリースした主なヒット曲は次の通り。[出典5]
1991年
「ときめいて」
1993年
「涙止まらない」
1994年
「きっと愛がある」
1995年
「人生変えちゃう夏かもね」
1996年
「私のNo.1」
1998年
「pure」
1999年
「AS PURE AS・・・」
2000年
「空色」
才色兼備で引っ張りだこ
西田ひかるはデビュー以来、健康的な明るさと前向きな姿勢が評価され、歌手のほか女優としても活躍。[出典1][出典3]
演技力が評価され、次のような受賞歴を持つ。[出典5]
1991年
第28回ゴールデンアロー賞 グラフ賞
第14回日本アカデミー賞 新人俳優賞
1996年
第33回ゴールデンアロー賞 演劇新人賞・最優秀新人賞
また才色兼備タレントとして幅広い活動を展開し、1998年の長野冬季オリンピックではオリンピックアンバサダーに選ばれた。[出典1][出典3]
CM出演
西田ひかるがこれまで出演したCMは、どれも名作。
記念すべき第1作目は1988年に放送されたハウス食品の「ハウスフルーチェ」CMだった。
夏バージョンのCM撮影は1月のハワイがほとんどでした。
日常から離れて早朝から日が落ちるまでファミリーのようでチームワークが命だと実感しました。
つづく「三菱エアコン・霧ヶ峰」CMには、1992~98年にわたって出演。
BGMとしては西田の楽曲「涙とまらない」「きっと愛がある」が採用されていた。
「霧ヶ峰」はインパクトのある絵コンテが多く、バラエティ番組では今でも当時のことを聞かれます。
特に「バスローブ編」が印象深いですが。
そのほかにもたくさんバージョンがあり、毎回撮影に趣向が凝らされて、おしゃれでユニークな作品ばかりでした。
三菱電機のハワイでの撮影では1月は天候不順が多く、砂嵐でフィルムが傷ついて、再撮があったりしたことも思い出のひとつです。
1995年、「人生変えちゃう夏かもね」をバックに放送されたのはアサヒビール「生ビールZ」のCM。
これは西田が20歳になってはじめて出演したアルコール製品のCMだったそう。[出典6]
ものまねされる
お笑いタレントのとくこは、西田ひかるのモノマネをしながら「アイドルあるある」を列挙するネタを披露している。[出典8]
▼ とくこによる西田ひかるのものまね
1973年~1985年、アメリカ・ロサンゼルスで暮らす。1988年『フィフティーン』(ポニーキャニオン)でレコードデビュー。同時にミュージカル『小公子セディ』に主演。同テレビアニメのテーマソングを歌うなど恵まれた芸能界スタートを果たす。以来、持ち前の健康的な明るさと、何事にも前向きに努力する姿勢が評価され、歌手活動と合わせて、多くのテレビドラマ・ミュージカル・舞台などに出演し、その演技力は活動分野の広さと共に高い評価を得ている。アメリカ時代に体験したボランティア活動にも熱心で、年2回行っていたチャリティーバザー他、1998年2月に行われた長野冬季オリンピックでは、ピースアピールの長野オリンピックアンバサダーにも選ばれている。2002年5月に結婚。公私共に充実して、ますますその存在は輝きを増している。
出典:タレントデータバンク