どんな人?
- 野沢那智はアル・パチーノやロバート・レッドフォードなどの吹き替えを担当していた声優、俳優。15年続いたラジオ深夜番組『パック・イン・ミュージック』でも人気を集めた。
- 劇団七曜会を経て、仲間とともに劇団城を設立。また、声優の養成所である「パフォーミング・アート・センター」も設立している。
- 2010年10月30日に肺がんのためこの世を去った。享年72歳だった。
生い立ち
将来の夢は舞台美術家
子どものころ、家の近くには「明治座」という新派や新国劇が上演される劇場があったという。
野沢は当時のことを次のように振り返る。
中学生のときは毎日のように(劇場に)通ってました。
行って何を見てたかっていうと、役者じゃなくて舞台装置。
明治座から帰ってくると、みかん箱を舞台に見立てたミニチュアを作って遊んだりなんかしてね。
舞台が好きで好きでしょうがなかったんですね。将来は舞台美術家になりたいと思ってました。[出典1]
芸能活動
演出家研究生から役者へ
大学3年生のとき、プロの劇団に出入りをして裏方の仕事を手伝っていた。
しかし、劇団の舞台美術家から
おまえ絵がヘタだな。思いつきはいいんだけど。向いてないよ。やめろ
と言われたため、演出家の道へ。
七曜会という俳優・高城淳一の劇団に演出家研修生として所属した。
『事件記者』(NHK)っていうドラマでキャップ役を演じていた、高城淳一さんの劇団なんですけどね。高城さんに会った際、「演出家希望?とりあえず役者やれ!」って言われて、いきなり舞台に出ることになっちゃった(笑)。それで3年くらい、劇団七曜会で役者を続けてましたね
と野沢は役者になった経緯を話している。[出典1]
洋画の吹き替え
野沢が役者になったばかりのころ、洋画の吹き替えの仕事が生まれた。
当時野沢は収入もなかったため、吹き替えのアルバイトに挑戦。
しかし当時の俳優にとって、吹き替えの仕事は「俳優として自分のオリジナリティを捨てている」と見下されているものだったという。[出典1]
劇団城の立ち上げ
劇団七曜会を辞めた後、仲間を集めて劇団城を設立。
野沢は当時を振り返り、
それが悲惨でしたね(笑)。
初めて演出をやったんですが、3年間で借金を370万円くらい作りました。
当時の370万円ですから、今だと2000万円くらいの価値ですか。
若いだけがとりえっていう役者が集まって、難しい演目ばかりやってるんだから、お客さんなんて入るわけがない。結局劇団は分裂して、僕が借金を全部抱え込むことになったんです。
と語っている。その後はアパートを引き払って、友人の家を転々としていた。[出典1]
『0011ナポレオン・ソロ』のイリヤ役の抜擢
アテレコの仕事も次第に増え、借金も半分になったため役者を辞めようと思っていたとき、
「最後にこのオーディションに行くだけ行ってきてよ。ほとんどキャストは決まっているんで、多分落ちるから大丈夫」
といわれたのが、海外ドラマ『0011ナポレオン・ソロ』のイリヤ役のオーディション。
やめるつもりで受けたオーディションだったが、野沢がイリヤ役に抜擢された。
しかもそれが大当たりで、視聴率40%くらいとっちゃったんですよ。それで、役者をやめるわけにはいかなくなったんです。ほんとに人生、何がどうなるかなんて、わからないものですね
と野沢は語っている。[出典1]
そのほか、野沢は声優としてアル・パチーノやロバート・レッドフォード、映画『ダイ・ハード』のブルース・ウィリスなどの吹き替えを担当。15年続いたラジオ深夜番組『パック・イン・ミュージック』でも人気を集めた。[出典2]
また、声優の養成所「パフォーミング・アート・センター」を設立している。[出典1]
私生活
肺がん
2010年10月30日に野沢は肺がんのために亡くなった。72歳だった。
都内で行われたお別れ会は、大好きな白ユリで飾られた祭壇、遺影はピンクのシャツを着て穏やかに微笑む写真。祭壇の中央には愛用していた机が置かれ、その上には、愛用の眼鏡、息子からの贈り物の時計、演出した舞台台本などが飾られた。
一般ファン用には記帳台が設けられ、350人以上が訪れた。
続く声優仲間らによるお別れ会には約600人が参列し、ピンクのカーネーションを献花。羽佐間道夫が司会を務めた。[出典3]