どんな人?
- 勝村政信(かつむらまさのぶ)は、日本で活動する役者。埼玉県出身の1963年7月21日生まれ。シス・カンパニー所属。
- 高校卒業後、就職するも演劇の道を志し2年で退職。蜷川幸雄主宰の蜷川スタジオを経て、鴻上尚史主宰の劇団「第三舞台」に所属した。
- 劇団の看板役者になるも1992年に退団し、その後はバラエティ番組に出演。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)はレギュラー出演し、知名度が上がるきっかけとなった。
- 以降、映像作品や舞台に多く出演し、バイプレイヤーとして活躍している。
▼勝村政信
生い立ち
勝村政信は、埼玉県出身の1963年7月21日生まれ。現在年齢は61歳。シス・カンパニー所属。[出典1]
佃煮屋で働く両親のもとに生まれた
勝村政信は、埼玉県蕨市の出身。
父親は老舗佃煮屋「日本橋鮒佐」の職人、母親は同店で店員をしていた。[出典2]
家族は両親のほか、兄がいる。
兄は「小学校のときは野球の神童と呼ばれていたが、高校入学後は驚くほどグレてしまった」と明かしている。[出典3]
野球少年からサッカー少年に
勝村政信は、小学校時代に兄とともに野球をしていた。町内会の野球チームでは、キャプテンを努めていた。
しかし中学校に入ると、サッカー部に入部している。[出典3]
高校は、埼玉県立浦和北高等学校を卒業。サッカー部に所属していた。
高校卒業後は進学せず、スポーツ用品の問屋で2年ほど働いた。
ある日、「部長になるまで20年かかる」と悟り退職している。[出典4]
芸能活動
友人がきっかけで蜷川幸雄の劇団へ
勝村政信は、スポーツ用品の問屋を退職後、急に芝居がやりたくなり、劇団のオーディションを受けている。
無名塾や文学座を受けたが、不合格であった。
1985年に芝居好きな女の子から演劇集団「ニナガワ・スタジオ」を教えられ、オーディションを受けたところ合格。俳優の道へと進んだ。[出典4]
1987年には、劇団「第3舞台」に所属。舞台『朝日のような夕日をつれて’87』以降、多くの舞台に出演。看板役者となった。
1988年には、映画『ほんの5g』で映画に初出演している。
1990年には、オムニバス映画『ボクが病気になった理由』に出演。鴻上尚史監督の第1話『マイ・スウィート・リトル・キャンサー』で主演を努めている。[出典5]
バラエティ番組で広く名を知られるように
勝村政信は、1990年からバラエティー番組『天才たけしの元気が出るテレビ』(日本テレビ)に出演し、有名となった。[出典5]
当時バラエティに俳優が出演するのは珍しく、オファーが来た際には断ろうと思っていたが、話がトントン拍子に進み出演することになった。
初めてビートたけしに会った際、「悪いようにはしない」と言われたのが胸に突き刺さったという。[出典6]
1992年に劇団「第3舞台」を退団しているが、以降も舞台には出演し続けている。[出典5]