2019年6月27日更新
出典:タレントデータバンク
どんな人?
- 木村沙織は1986年8月19日生まれの元プロバレーボール選手。ポジションはウイングスパイカー。身長185cm。
- 高校生時代から活躍しており「スーパー女子高生」とも称されたが、2017年3月に現役引退を発表。
- 現役時代は数々の賞を受賞しており、中でもベストサーバー賞は3回受賞している。
- 2016年12月31日、ブログにて既にに結婚し新生活を始めていたことを報告。夫は元ビーチバレー選手の日高裕次郎。
▼木村沙織
生い立ち
木村沙織は1986年8月19日に埼玉県八潮市で生まれ、東京都あきる野市で育った。年齢は現在38歳。[出典1][出典2]身長185cm。[出典3]
バレーボール一家
木村沙織とバレーボールとの出会いは、ママさんバレーチームに所属していた母の練習についていったこと。[出典4]
そこで同い年の選手を見た木村は「私もやりたい」と思い、小学2年生のときに小学生クラブチーム「秋川JVC」に参加した。[出典4][出典5]
又、父もバレーボール経験者であり、5歳下の妹・美里も小学1年生になるとバレーボールを始めたそう。[出典6]
サツキとメイのような姉妹
木村沙織と妹・美里は、『となりのトトロ』に登場する姉妹「サツキとメイ」に例えられるような、仲良し姉妹だったという。[出典7]
レシーブ力の土台を形成
秋川JVC時代、土井垣泰明監督から指導されていた木村沙織。レシーブを重要視する彼のもと、週5ペースで基本練習に打ち込んでいた。[出典5][出典8]
2週間だけバレーを辞めた
友だちから遊びに誘われたとき、「バレーがあるから遊べない」と断るのが嫌だった木村沙織。小学4年生のときにはバレーから一時離れた。[出典8]
すると今度はバレー仲間から「戻ってきて」と言われるようになり、これも嫌になった。結局木村は2週間ほど経つと、バレーに戻ったという。[出典8]
エレクトーンや英会話も習っていた
木村沙織は小学校に入学する前、エレクトーンを習っていた。小学校入学後はピアノを習い始めたが、こちらは数回通って辞めたという。[出典6]
また、小学2年生の頃には英会話を習い、小学4〜6年生の頃は習字も習っていたほか、通信教育も続けていたそうだ。[出典6]
中学・高校時代
成徳学園でバレーに打ち込む
安藤美純監督に認められた木村沙織は、成徳学園(現・下北沢成徳)中学校に進学。同高校にも進学し、小川良樹監督のもとバレーに打ち込んだ。[出典5]
成徳は木村沙織にピッタリだった
高校時代の練習は、自主的に考えることを重んじられていた。そのため基本練習はありつつも、メインとなるのは自主練習だった。[出典5]
また、監督からの指導が厳しいわけでなく、選手同士がお互いに高め合う環境で、これが彼女の性格に合っていたそうだ。[出典5]
高校2年生で全日本代表に
木村沙織は高校生時代、「春高バレー」に出場し全国優勝を飾った。[出典9]
そんな活躍を評価された木村は、全日本代表選手に選出。2003年のワールドカップ、2004年のアテネオリンピック最終予選での活躍ぶりからスーパー女子高生と呼ばれるまでになった。[出典9]
プロバレーボール選手としての活躍
木村沙織のポジションはウイングスパイカー。そんな彼女の技術力は高く、世界的プレーヤーとも言われている。[出典1]
17歳で全日本代表に初招集。同年アジア選手権で代表デビューを果たす。レシーブに定評があり、セッターの素質も見出される中、アタッカーとしてアテネ五輪出場に大きく貢献し「スーパー女子高生」として一躍その名を広めた。東レアローズに入団すると、主力として活躍してチームは常勝集団に定着。全日本代表でも絶対的エースとして数々の国際大会で存在感を示し、ロンドン五輪銅メダル獲得の原動力となった。満を持して、世界最高峰リーグであるトルコに移籍し、2年間の挑戦の中でヨーロッパチャンピンズリーグ優勝も経験。リオ五輪では全日本チームのキャプテンとしてチームを牽引した。その後、1シーズン限りでの引退を表明しVリーグに挑み、2017年、現役を引退。現在は専業主婦の傍ら、マルチに活動。
出典:タレントデータバンク