さらに稀勢の里の腰、膝などが硬いことに気がついた親方は、まわしを取りにいく「四つ相撲は無理」と判断。稽古場でまわしを取ることを禁じた。[出典8]
それから稀勢の里は、毎日、突きと押し、捕まった時の対応ばかりを教えられたという。[出典8]
▼親方が突きの稽古ばかり教えた
https://twitter.com/SportsHochi/status/917487129197912064
驚異的なスピード出世
稀勢の里の初土俵は、2002年の春場所。“萩原”の四股名で臨んだ。[出典8]
16歳の時、幕下に昇進、2004年には貴乃花に続く史上2番目の17歳9カ月で新十両となるなどスピード出世を見せた。[出典8]
▼史上2番目の早さ!
https://twitter.com/sumokyokai/status/550619891070275585
同年の11月場所では同じく史上2番目で新入幕(十両から幕内になること)を果たした。[出典8][出典9][出典10]
それ以降、四股名を“萩原”から“稀勢の里”に改め、19歳の時には小結に昇進した。[出典11]
▼萩原→稀勢の里への変遷
https://twitter.com/sumokyokai/status/747685354505932800
稀勢の里の大関昇進まで
三役での足踏み
「稀な勢いを作れ」という四股名に込められた願いの通り、番付を駆け上った稀勢の里だが、大関昇進を前に、三役での停滞が続いた。[出典10][出典12]
初となる大関昇進は2012年。新入幕から大関昇進まで42場所をかけたのは史上5番目、三役の通過は史上4番目となる遅さだった。[出典4]
▼大関昇進までは長い道のりがあった
https://twitter.com/sumokyokai/status/824062079527108608
まわしを取るようになってしまった
「四つ相撲は無理」とまで言われた稀勢の里が、まわしを取るようになってしまったのは、2006年秋場所で右上手を取って朝青龍に勝った頃から。
その勝負について鳴戸親方は、「たまたま」であると稀勢の里に注意し、
おまえは無駄な相撲を随分とっている、何番損したか[出典11]
と語り、右上手を取れば相撲に勝てるわけではないと説いたという。[出典8][出典11]
▼伸び悩みの時期があった
https://twitter.com/sumokyokai/status/426893372213579776
プレッシャーへの弱さ
稀勢の里のプレッシャーに対する弱さについても鳴戸親方は指摘した。
10代にして関取に昇給した稀勢の里が感じていただろう重圧を理解しながらも、
そういう道を歩いていかないといけないから、それらしく生きなくてはいけない[出典11]