2019年9月3日更新
美輪明宏(みわあきひろ)は日本で活動するシンガーソングライター、俳優。1935年5月15日生まれ。長崎県出身。本名は丸山明宏。オフィスミワに所属する。
そのため美輪は国立音大付属高校を中退し、食い扶持を稼ぐためにバーテン、ゲイバー勤めなどを経験していた。[出典2][出典5]
そして前名・丸山明宏の名を響かせたシャンソン喫茶「銀巴里」で歌手としての才能を開花させた。
だが、かつて自分を勘当した父親が金の無心に現れたという。
葛藤はありながらも、弟たちの面倒を見るために美輪はアルバイトとして進駐軍のキャンプやキャバレーで歌って稼いだという。[出典2]
▼苦労の時代を過ごす
https://twitter.com/geinou_genki/status/993780982271524865
美輪明宏の歌手デビュー
高校を中退し16歳にしてプロの歌手として活動を始めた美輪明宏。[出典5]
苦労時代を経て、1957年にフランスのシャンソン「メケ・メケ」をカバーしてヒット。[出典2]
ファッション革命と美貌で衝撃を与える。[出典5]
それ以降も美輪はCDを発売しており、
- 1999年 CD『日本の心を歌う』
- 2013年 アルバム『BRAVA DIVA MIWA』
- 2014年 アルバム『愛の讃歌〜エディット・ピアフに寄せて〜』
- 2016年 アルバム『美輪明宏ベストセレクション』
などをリリースしている。[出典5]
▼歌手として活躍
https://twitter.com/natalie_mu/status/959399521238175744
「ヨイトマケの唄」で紅白に出場
「ヨイトマケの唄」がヒット
1965年には「ヨイトマケの唄」がヒット。
「ヨイトマケの唄」は、美輪が29歳のときに自身が作詞・作曲した日雇い労働者の母親をテーマにした歌。
炭鉱町での興行の際に真っ黒になった炭鉱夫を見て、彼らを励ます歌を作りたいと考えたと述べている。
この曲を作る際に、小学校時代の同級生とその子の母親が思い浮かんだそう。
脚が不自由で罵倒されながらも工場で働いていた同級生の母親は、ひとつの着想となったようだ。[出典7]
二度の紅白出場を果たす
「ヨイトマケの唄」は当時ヒットしたものの、差別用語が含まれているとの理由で日本民間放送連盟から放送禁止曲に指定されていた。
しかし美輪明宏は2012年と2015年の二度に渡って『紅白歌合戦』(NHK)に出場し、「ヨイトマケの唄」を披露している。
自身は黒髪にして、ピンスポットが当たるだけのシンプルな演出は、
「演出がない分、見入ってしまう」「感無量」[出典7]
とネットで評判を呼び、圧巻の歌を披露した。[出典7]
▼「ヨイトマケの唄」を歌い上げる
https://twitter.com/oricon/status/681796567301410816
小学校の頃から声楽を習い、国立音大付属高校を中退してプロの歌手として活動を始めた。クラシック・シャンソン・タンゴ・ラテン・ジャズを歌い、銀巴里やテレビに出演するようになり、1957年、『メケメケ』が大ヒット。ファッション革命と美貌で衝撃を与える。日本におけるシンガーソングライターの元祖として『ヨイトマケの唄』他多数の唄を作ってきた。84年フランス、87年再度フランス・スペイン・ドイツに招待されコンサート・ツアーを行う。ルモンド、リベラシオンを始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛される。俳優としては、寺山修司の演劇実験室・天井桟敷の旗揚公演『青森県のせむし男』『毛皮のマリー』への参加・主演を機に、三島由紀夫に熱望され『黒蜥蜴』を上演、空前の大絶賛を受けた。深作欣二監督により映画化もされ、ニューヨーク・タイムズにも大々的に取り上げられ、ニューヨークやパリを始め世界的ヒットとなった。いまやその演技のみならず、演出・美術・照明・衣装・音楽など総合舞台人として、その活躍は常に耳目を集めている。
出典:タレントデータバンク