2019年9月3日更新
出典:タレントデータバンク
美輪明宏(みわあきひろ)は日本で活動するシンガーソングライター、俳優。1935年5月15日生まれ。長崎県出身。本名は丸山明宏。オフィスミワに所属する。
どんな人?
▼美輪明宏
https://twitter.com/no9kaikenno/status/948147938282299392
美輪明宏の生い立ち
美輪明宏は1935年5月15日生まれ、長崎県長崎市本石灰町出身。
現在の年齢は89歳。本名は丸山臣吾。[出典1]
家庭が裕福だった幼少期
美輪明宏は長崎の「丸山遊郭」に近い繁華街で生まれ育ち、実家はカフェー(キャバレーの前身)や料亭を営んでいた。
美輪は10人兄弟で、1人の兄を除いて全て腹違いという複雑な家庭環境だった。しかし、家業の景気がよかったため裕福に育ったようだ。[出典2]
遊郭の近くのため、昼間は碌にあいさつもしない男が、夜には女性にうつつを抜かす姿を見ていたそうで、
「建前を全部取り払った、人間の本質を見て育った」[出典3]
と美輪は当時を振り返っている。[出典3]
▼裕福な家庭に育った
https://twitter.com/gg70onsxx/status/995072458855272448
若い頃は美少年でモテていた
「神武(じんむ)以来の美少年」と称された美輪明宏は、その顔の良さで10代からボーイフレンドには不自由しなかったという。
美輪は幼い頃から遊女の人生を見てきたため、恋愛については早熟だったと本人も後年に語っている。
20代前半に受けた雑誌のインタビュー記事では、「今、つきあってるのは20〜30人」と豪語するほどモテていたそう。[出典2]
10歳の頃に原爆が投下
1945年8月9日午前、美輪明宏が10歳の頃に長崎へ原爆が落とされた。[出典2][出典4]
爆心地からおよそ3.9kmある長崎市本石灰町の自宅で被爆したが、怪我はなかったそうだ。[出典3]
当時佐古国民学校(現・長崎市立佐古小学校)4年生だった美輪は、自宅2階で夏休みの宿題の絵を描いていたという。[出典4]
▼戦争を体験
https://twitter.com/pz8c81py2v1/status/995048437593886725
声楽の道を目指し上京
小学生時代から声楽を習っていたという美輪明宏。[出典5]
海星中学校を卒業した後に15歳で上京し、音楽学校に通うようになった。[出典2][出典3]
美輪は中学から高校まで優等生として順調に進学していったそう。[出典2]
上京した後に実家が破産
上京後、美輪明宏は帰郷した時に生活難の親戚を見捨てる父親に対して激怒。大喧嘩へと発展し、絶縁を言い渡されてしまう。[出典2]
さらに戦後の環境で親の仕事はうまくいかなくなり、破産。家が没落したため、仕送りは完全に停止した。[出典6]
小学校の頃から声楽を習い、国立音大付属高校を中退してプロの歌手として活動を始めた。クラシック・シャンソン・タンゴ・ラテン・ジャズを歌い、銀巴里やテレビに出演するようになり、1957年、『メケメケ』が大ヒット。ファッション革命と美貌で衝撃を与える。日本におけるシンガーソングライターの元祖として『ヨイトマケの唄』他多数の唄を作ってきた。84年フランス、87年再度フランス・スペイン・ドイツに招待されコンサート・ツアーを行う。ルモンド、リベラシオンを始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛される。俳優としては、寺山修司の演劇実験室・天井桟敷の旗揚公演『青森県のせむし男』『毛皮のマリー』への参加・主演を機に、三島由紀夫に熱望され『黒蜥蜴』を上演、空前の大絶賛を受けた。深作欣二監督により映画化もされ、ニューヨーク・タイムズにも大々的に取り上げられ、ニューヨークやパリを始め世界的ヒットとなった。いまやその演技のみならず、演出・美術・照明・衣装・音楽など総合舞台人として、その活躍は常に耳目を集めている。
出典:タレントデータバンク