お笑い芸人・出川哲朗の実家は、創業100年の横浜の老舗のり問屋、蔦金商店である。[出典1]
そこで出川はコラボレーション商品として「出川哲朗の元気のりのり8個セット」を販売している。[出典2]
時間がある時は販売を手伝うという出川。
体当たり芸でバラエティ番組に欠かせない存在となっている出川は、母の死をきっかけに家族の大切さを感じるようになったという。[出典3]
創業
店を始めたのは曽祖父・出川金蔵。
成就院にある古い絵地図によると、出川家は江戸時代にこの地域の新田開発に携わった有力な一族だったそうだ。
1894、金蔵は横浜に店を構えた。しかし店が軌道に乗り始めたころ、脳梗塞のため急死。
店を引き継いだ政雄は店を守るために懸命に働いた。[出典3]
戦争を耐えぬく
1931年、政雄は出川の祖母にあたる普美子と結婚し、その2年後に出川の父・誠一郎が誕生した。
1941年、太平洋戦争開戦。
1945年5月29日に横浜大空襲のため店は焼失したものの、1948年に再びのり問屋を再開した。[出典3]
出川哲朗誕生
1958年、誠一郎は出川の母である泰子と結婚。
それから3年後の1961年に誠一郎の父・政雄が他界し、誠一郎は店を任された。
そして1964年に2男・哲朗が誕生した。[出典3]
売上好調
1970年代、のりが贈答品として人気を集めていたため店の売りあげが上昇。
この頃から出川の父・誠一郎はサイドビジネスにも手を伸ばした。
これにより周りとの付き合いも深まり、自分の経営を人任せにする日々が続いたため、妻・泰子は別居を決意し、別居したあとも泰子は1人で店を続けた。[出典3]
経営が傾く
1981年、誠一郎が先物取引に手を出したことで創業87年の店は倒産寸前に。
店を持ち直すには億単位の資金が必要で、銀行が老舗を守るためにお金を貸してくれることになったが、その条件は誠一郎を社長の座から降ろすことだった。
結果、誠一郎は姿を消し、泰子はもくもくと働いた。[出典3]
当時出川は高校3年生。
卒業後に料理人になることを選んだが半年でやめてしまい、以降は演劇の世界へ。
お笑いコンビ・ウッチャンナンチャンの南原清隆や内村光良らと劇団を旗揚げした。[出典3]
父の死
1986年、出川の母・泰子の元に別居中の夫・誠一郎から連絡が入った。
誠一郎は糖尿病に苦しんでおり、2人は再び同居することに。
以来、泰子は誠一郎を看病したが、5年後に誠一郎は58歳の若さでこの世を去った。
葬儀には1000人以上の参列者がつめかけたという。
その頃、出川は芸によりテレビに出演するようになっており、後に「嫌いな男ランキング」で1位を獲得したが、母・泰子は応援し続けた。[出典3]
母の死
2001年、泰子にがんが発覚。2011年8月、76歳で泰子は生涯に幕を下ろした。[出典3]