と番組プロデューサーも黒柳徹子との約束を優先し、「嘘をつかない」というスタンスを守り続けたのだとか。[出典9]
▼「嘘をつかない番組」の誕生!?
「テレビ女優第1号」としての苦悩
黒柳徹子はあまり落ち込まない性格をしているそうだが、それでもデビュー当時は、周りの綺麗な女優と自分を比べ悲観的になってしまうことがあったという。
しかしそのうち、
人と比べるなんて無駄だなあ、自分は自分、人は人じゃない?[出典35]
と思えるようになり、自分と周りの人を比較することを辞めれたとか。[出典35]
38歳で1年間ニューヨーク留学へ
黒柳徹子は38歳のとき、1年間アメリカのニューヨークで過ごしている。
彼女はもともと芝居をやっている俳優と自分の演技力の差を感じ、俳優の先輩はみな舞台経験があることから、
私もいつか、劇団に入るかして勉強しなきゃダメだろう[出典37]
と思っていた。
▼演技力を身につけるためにニューヨークへ
https://twitter.com/voguejp/status/1059199116650209280
しかし当時の黒柳徹子は、すでに芸歴15年。
毎朝朝ドラに出演し、音楽番組の司会も務めていた。
だが「そろそろ休まないと」「もっと学びたいし今のままじゃダメだ」と考えていた彼女は、思い切ってニューヨーク留学を決意。
ニューヨークに降り立った彼女は、一日中「メリー・ターサイ演劇学校」や「ルイジ・ダンススクール」で演技とダンスの勉強をしていたという。[出典37]
▼タイムズスクエアで振袖姿の黒柳徹子
https://twitter.com/pig_and_perl/status/1059692561927786496
周りの友人はすごいアーティストばかりで、
毎晩ディナーは誰かのお家にお邪魔して、自分で食べたことってなかったですね[出典36]
と黒柳徹子は当時を振り返っている。
ニューヨークで充実した生活を送っていた彼女は、
帰ってきて仕事がなかったら、それは才能がなかったってことだから、違う仕事をやればいいじゃないか[出典37]
と考えていたが、テレビ朝日に『徹子の部屋』の話を持ちかけられ、帰国したそうだ。[出典37]
日本初のトーク番組『徹子の部屋』
ギネス認定を受けた事も!?
1976年から放送されているテレビ番組『徹子の部屋』(テレビ朝日系)は、日本で初めてのトーク番組である。
また、同番組は「一人の司会者が務める番組」として、最多の放送回数を記録し、ギネス認定を受けた。[出典1]
東京・乃木坂生まれ。父はヴァイオリニスト、NHK交響楽団のコンサート・マスター。トモエ学園から香蘭女学校を経て、東京音楽大学声楽科を卒業しNHK放送劇団に入団。NHK専属のテレビ女優第1号として活躍。その後、文学座研究所やニューヨークのMERRY TARCAI演劇学校などで学び、アメリカのテレビ番組、ジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショー』など、多くのテレビ番組に出演。また、タイム、ニューズウィーク、ニューヨークタイムス、ヘラルドトリビューン、ピープルなどに日本の代表女性として紹介される。日本で初めてのトーク番組『徹子の部屋』は、大人気の長寿番組となり、同一司会者による番組の最多放送回数記録でギネスに認定される。著作『窓ぎわのトットちゃん』は760万部のベストセラーとなり、世界35ヶ国で翻訳される。日本語版の印税で社会福祉法人トット基金を設立。プロの、ろう者の俳優の養成、演劇活動、手話教室などに力を注ぐ。ユニセフ(国際児童基金)親善大使としてアフリカ、アジアなどを訪問。メディアを通して、その現状報告と募金活動などに従事。その他、日本ペンクラブ会員、ちひろ美術館館長、東京フィルハーモニー交響楽団副理事長、日本パンダ保護協会名誉会長、WWFジャパン顧問など多方面で活動。2021年にYoutubeを開設したことも話題となっている。
出典:タレントデータバンク