【Wikiより詳しい!】エメラルド王・早田英志とはどんな人?
コロンビアのエメラルド王として知られる早田英志。早田はなぜ、エリート人生を捨ててコロンビアへ渡ったのか?早田の危険と隣り合わせな人生や、映画『エメラルド・カウボーイ』の裏話にも迫る!
2016年9月7日更新
東京教育大学を経て外資系航空会社へ就職
早田英志は1940年、埼玉県熊谷市に生まれ、戦後は父方の実家がある熊本県で育ったという。[出典1]
そんな早田は東京教育大学(現・筑波大学)農村経済学科を卒業後、渡米してノースウエスト航空やパンアメリカン航空にラインメカニックとして勤務した。[出典2]
その後、会社という狭い世界で生きることに疑問を持った早田[出典2]は、航空会社を退職して1971年に中米に向かった。[出典3]
コスタリカ国立大学で医学を学んだ後、コロンビアへ
早田英志はコスタリカ国立大学医学部に入学した。[出典4]
また、コスタリカで早田は結婚し、家庭を持っている。[出典3]
その後早田はコスタリカ国立大学を中退し、コロンビアへ渡る。[出典4]
どうしてコロンビアへ?
早田がコロンビアへ向かった理由として
が挙げられている。
コロンビア最大のエメラルド輸出商に
早田英志はコロンビアでエメラルド原石業を立ち上げた後、エメラルド輸出業で事業を拡大させてコロンビア最大のエメラルド輸出商となった。[出典1][出典4]
また、1994年にはエメラルド鉱山と警備会社をもつエメラルド公的取引所「コロンビア・エメラルドセンター」を設立し、偽エメラルド排除に力を入れている。[出典2]
映画『エメラルド・カウボーイ』の監督・主演・制作を担当
2001年に制作され、2005年に日本で公開された映画『エメラルド・カウボーイ』は、早田英志が監督や主演、制作を担当した。[出典1][出典4]
なぜ自身が出演したのかについて、早田は以下のように語っている。[出典5]
私が出演したのは、米国から俳優やスタッフを連れてきたら、ゲリラに捕まったら命がない、と怖気づいたんですよ。
で、自分の金で製作するんだし、出てやろうということになった。[出典5]
どんな映画?
映画『エメラルド・カウボーイ』では、早田がエメラルド鉱山に入り、原石取引で成功してコロンビアで1番の業者になるまでのストーリーが描かれている。[出典5]
また、金持ちの子供がゲリラに誘拐されそうになったり、早田自身が業界から追い出されそうになったほか、早田自身の命が狙われることもあったという。
これらの危険な場面を経験してきたことが、早田の緊張感と凄みにあふれる表情から伝わってくるようだ。[出典5]
危険と隣り合わせな人生
早田英志のように、コロンビアでエメラルドを売買する業者は「エスメラルデーロ」と呼ばれる。
彼らはカウボーイハットを被り、腰からは拳銃をぶら下げ、馬に乗る代わりにジープ(注・四輪駆動車)を乗り回すという。
また、西部劇のような銃撃戦に巻き込まれることも日常茶飯事だとか。[出典6]
実際に早田は、以下の様な波乱に巻き込まれているという。[出典6]
- 早田自身が誘拐される(8回)
- 事務所が爆破される
- 2人の愛娘が誘拐未遂に遭う
早田英志の人生哲学:死なない限り問題はない
早田英志は『死なない限り問題はない』という本を出版している。
このタイトルに早田が言いたいことは集約されているとし、
コロンビアでは簡単に殺られるわけですよ。だから、殺されないように。殺すことがあっても殺されないように。[出典4]
と語る。これが早田の人生哲学らしい。続けて早田は
結局、死んでしまえば何もできない。生きていれば、いろいろな可能性や希望がでてくる。[出典4]
とも語っている。[出典4]