ディーン・フジオカが日本で有名になるまで
『あさが来た』で五代友厚役を演じて以来、日本での活躍がめざましいディーン・フジオカ。しかしディーン・フジオカは元々は香港や台湾を中心に活躍していた俳優である。ディーン・フジオカのこれまでの経歴を紐解いていく。
2023年3月23日更新
ディーン・フジオカが日本で有名になるまで
2015年、NHKの朝ドラ『あさが来た』で一躍脚光を浴びるようになったディーン・フジオカ。
ディーン・フジオカは、元々は香港や台湾で芸能活動を行ってきた経緯があり、この数年で母国の日本で活躍するようになった俳優である。
- なぜディーン・フジオカは海外で俳優をしていたのか?
- 海外でどのくらい人気があったのか?
- なぜ日本に戻って仕事をするようになったのか?
これらをこの記事では解説する。
アメリカのシアトル大学に留学
ディーン・フジオカはビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのようなIT経営者になることに憧れ、1999年19歳の時、アメリカのシアトル大学に留学する。
卒業後は現地で起業することを考えていたが、2001年の同時多発テロの影響でビザの発給が難しくなり、アメリカでの起業を断念。
そしてディーン・フジオカは、アルバイトで貯めたお金や身の回りの物を売ったお金で、23歳の時、アジアをバックパッカーとして旅する。
香港での活躍 〜アジア放浪の末、一気にスター街道を突き進む〜
香港のクラブでスカウトされる
北京からベトナム、カンボジア、タイ、香港と陸路で3ヶ月放浪し、2004年24歳の時、香港に立ち寄る。[出典1]
香港到着後2週間ほどした時に中心街・ワンチャイで夜のクラブイベントへ行き、本場・アメリカで練習していたラップを飛び入り参加で披露したという。するとその模様を見ていたファッション誌の編集者からモデルのスカウトを受け、これが芸能界入りのきっかけとなった。
この頃から名前を覚えてもらいやすいように『ディーン・フジオカ』と名乗るようになる。
香港の雑誌にも多数掲載されるようになり、ファッションショー、ミュージックビデオ、CMなど出演の幅を広げる。
中心街の大モニターに出演CMが流れ、一気にスター街道へ
こうして出演を続けていたある日、ついに中心街・ワンチャイにあるタイムズスクエアにある大モニター[注1]でディーン・フジオカが出演したソニーのCMが流れ、一気に脚光を浴びるようになった。
クラブでスカウトされて大モニターで映しだされるようになってたった4ヶ月間のことだったという。[出典1]
ディーン・フジオカは当時のことを振り返ってこう語っている。
貧乏バックパッカーだったので正直お金が目的だった。
とにかくサヴァイブしてゆくために色々やっていたら たまたま上手くいったのがモデルだった。[出典1]
香港で俳優デビューにして映画主演を務める
2005年、25歳の時に香港映画『八月の物語』で俳優デビューにして主演に抜擢される。
女子高生とディーン・フジオカ演じる学生の淡い恋を描いている。前年に香港に訪れるまで喋ったこともない広東語を猛練習の末体得したという。
『八月の物語』は各国の映画祭に出品されたことにより俳優としての注目が高まり、この映画を目にした台湾のプロデューサー、アンジー・チャイがディーン・フジオカに台湾へ来ることを誘う。
アンジー・チャイは台湾版『花より男子』を大ヒットさせた台湾の名物プロデューサーであった。[出典1]
こうしてディーン・フジオカは翌年2006年26歳の時、活動の拠点を台湾に移す。
拠点を台湾に移す 〜着実に現地でキャリアを積んでいく〜
台湾で出演したドラマが爆発的ヒット
アンジー・チャイの奨めを受け台湾へ去年を移す。
貧乏料理人とお嬢様の恋を描いたテレビドラマ『ホントの恋の見つけかた』に出演。
ディーン・フジオカは主人公の恋敵となる日本人の天才ピアニストとして登場する。このときは北京語を操り演じた。
台湾に来て2年語、2008年28歳の時『笑うハナに恋きたる』に出演。
ヒロインに恋するイケメン御曹司役として登場した。このドラマでの役どころは少年がダイエットでカッコ良くなったという設定で、中国全土で放送された。
中国では視聴率は1%取れば成功と言われる中で、このドラマは視聴率8%を記録。ディーン・フジオカは一躍人気者となった。[出典1]
台湾の人気俳優になるも、一旦の休止へ
ファンに囲まれ街中も歩けないほどの状況になるが、ディーン・フジオカは
「俺、こういう人生を生きたかったのかな…?」[出典1]
とふと悩むようになったという。また、この頃過剰なストレスが原因で顔面麻痺にもなった。[出典1]
ディーン・フジオカは当時を振り返り、「当時の状況に自分自身ついていけていなかった。自分の実力が足りなかったのかもしれない」と語っている。[出典1]
こうした葛藤から一度全部の仕事を休み、ディーン・フジオカは恋人が住むインドネシア・ジャカルタへ行くこととなる。
ジャカルタで音楽活動 〜そして俳優に復帰〜
ジャカルタで音楽活動を行う
2008年、28歳の時インドネシア・ジャカルタへ渡り、世界的に有名なDJであるDJ Sumoと音楽制作に取り組む。[出典1]
作詞作曲、歌唱も行いオリジナルアルバムを制作した。
このプロモーションビデオの中では、アメリカ時代から続けているボクシングも披露している。