山田孝之がウシジマ役にこめるものとは?『闇金ウシジマくん』へのこだわりからみる、俳優・山田孝之を分析!
映画『闇金ウシジマくん Part3 / Final』でついに最終章を迎える『闇金ウシジマくん』シリーズ。主演を務めてきた山田孝之がウシジマ役に込めるものとは?
2023年3月10日更新
俳優・山田孝之
https://twitter.com/tyamadamg/status/736177586330468353
数々の映画やCM、ドラマで活躍する俳優・山田孝之。
業界紙エンターテインメント・ウィークリー紙の2010年10月号で「世界が注目する10人の俳優」に選ばれたただ一人の日本人としても、その俳優としての実力は世界に認められるほどだ。[出典1]
そんな山田孝之にとってひときわ思い入れの強い役が、大人気シリーズ『闇金ウシジマくん』の主人公・丑嶋 馨(うしじま かおる)である。
2016年秋公開の映画『闇金ウシジマくん Part3』そして映画『闇金ウシジマくん Final』でいよいよ最終章を迎える本シリーズ[出典2]だが、
俳優・山田孝之にとって、「ウシジマくん」という役柄はどのような存在だったのだろうか。
俳優としての遍歴
山田孝之は、1999年TVドラマ『サイコメトラーEIJI』(日本テレビ系)で俳優デビューし、2003年に放映されたドラマ版『ウォーターボーイズ』(フジテレビ系)で初主演を果たし、一躍注目を集めた。[出典3]
当初は爽やかな好青年として俳優デビューを果たした山田孝之だったが、
2007年の映画『クローズ ZERO』で、ヒゲを伸ばしたワイルドなヤンキーを演じ、自らのアイドル的なイメージを覆すと同時に、俳優としての可能性を広げた。[出典4]
カメレオン俳優と称される1人である山田だが、
15年におよぶ自身のキャリアで演じてきた数多の役柄について、山田は、
「ウシジマとそれ以外」[出典5]
と、あっさり分類できると語る。[出典5]
「ウシジマとそれ以外」
この言葉の真意について、山田は、
「芝居をするという意味では同じですが、役柄へのアプローチの方法が他の役とは全く違うんです。丑嶋という役の“型”というのがあって、例えば座るときの角度から手の位置、足の組み方まで全て決まってるんです。内面ではなくて、役の外側を作り込んで、シーズンを重ねるごとにそれを磨いていく作業ですね。それが他の役ではできないことであり、楽しいですね。」[出典5]
と語っている。
つまり内面から1人の人間として演じるのではなく、着ぐるみのように外側を作り込み、そこに「ウシジマ」の”操舵手”として、俳優・山田孝之が入り込むのだ。
また、「磨く」ということについて、シーズンを重ねるごとにウシジマという役柄自体が変化・成長していくということとは異なるという。[出典5]
「『Season1』で、1本の樹から“ウシジマ”を彫り出し、ほとんど出来上がったんですけど、それをどんどん紙やすりで滑らかにしたり、磨き上げていくということなんです。他の役だと、撮影期間中にある程度、役柄と自分の適度な距離を見つけて、並行して歩みつつ『よーい、スタート』の瞬間に混ざって、『カット』が掛かるとまた元の距離に戻るということの繰り返しなんです。丑嶋に関しては、外側の要素(外見、歩き方、話し方、佇まいなど…)を磨いた上で、中身は空洞になってて、すっぽりと役を被るような感覚です。」[出典5]
「他の役なら『なぜこの人はここに来て、こう言ったのか?』ということを考えるけど、ウシジマに関しては考えつつも答えは出さない状態で臨んでます。完全に理解すると、役柄が完全に“人間”になっちゃう気がするし、僕の色が付いちゃうのが嫌なんです。だから僕自身、取材でウシジマの内面について聞かれても、理解しようとしてないので答えられない(笑)。ウシジマの不気味さって、メインのキャラクターなのに語られないところだと思うんです。何者なのか分からない。そのために作り込まない方がいいんです。」[出典5]
山田は、ウシジマを演じるにあたり、ウシジマはタイトルロールでありながらも
「本当の意味では主役ではない」と語っている。
彼に金を借りに来る債務者とその周辺の者たち、彼らが紡ぐドラマこそが、本シリーズの“メインディッシュ”であり、[出典5]
その物語を際立たせるためにも、ウシジマが完全に”人間”として物語性を持つことがないよう、山田なりに自らの役を演出しているといえよう。
活躍を広げるワケ
山田孝之はかつて、
「撮影に入ったら自分をすべて否定します。役の人生を全うしなければ気が済まない」[出典4]
と語っていた。[出典4]
それだけにシリアスからコメディまでどんな役にも対応でき、作品ごとに違う山田孝之が生きる役を見ることができる。
有名で演技力もあるうえ、このように作品ごとに過去の自分をリセットして臨む点は、
ある意味新人のように可能性に溢れていると言うことができる。[出典4]